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英子の成長記  英子的成長紀錄

2021.2.18  更新日期:2022/02/28
2021.2.18 更新日期:2022/02/28

私、山口英子1951年日本長崎県佐世保市生まれ、父山口卯之吉(旧姓大津)1909年長崎生まれ東京帝国大学独法系卒、母典子1914年佐賀生まれ佐賀成美高等女学校卒。 母は松浦姓から実家の父の姉(伯母)が子供がいなかったので養女になったのです。
我,山口英子 1951 年生於日本長崎縣佐世保市,父親山口卯之吉(舊姓大津)1909 年長崎出生東京帝國大學德法系畢業,母親典子 1914 年佐賀出生佐賀成美高等女學校畢業。母親原本姓松浦,因娘家父親的姊姊(伯母)沒有子女,所以被收養為養女。

今年私は古希を迎えました振り返れば長い人生の間には楽しいことよりも苦しいことが多いという事に70迄生きてきて色んな体験や経験を重ねた結論がそれでした。私の両親は息子を亡くし苦しい一生を送ったのですが、それに比べれば私や家族たちは皆元気で生活していますから幸せな方だと思います。こんなにも遠いところに嫁いでしまったことは母には申し訳ない思いと娘には私が、外国人の母なので色々不自由な思いと、かなり迷惑をかけてきたと思います。色々な場面で助けてくれたことに感謝します。どこの家庭にも表からは見えない苦労が隠れているものですそれを我慢して努力しながら妥協をしながら人生を終らせて魂を磨いていかないといけないのだとやっとこの歳で気がつきました。主人には生活の面などでは何不自由なく暮らさせてもらって実家の母の援助もしてくれたことに感謝しています。
今年我迎來了古稀之年,回顧這漫長的人生,活到 70 歲所累積的各種體驗與經歷讓我得出一個結論:人生中痛苦的事情遠比快樂的事情來得多。我的父母在失去兒子後度過了艱辛的一生,相較之下,我和家人們都能健康地生活著,我想我們算是幸福的。嫁到這麼遠的地方,對母親我感到很抱歉,而對女兒來說,因為我有個外國人母親,想必讓她經歷了許多不便,也給她們添了不少麻煩。我感謝在各種場合幫助過我的人們。每個家庭都有外人看不見的辛勞,必須忍耐、努力並妥協地走完人生,磨練靈魂——直到這個年紀我才終於明白這個道理。感謝丈夫讓我在生活上過得無憂無慮,也感謝他對我娘家母親的援助。

  

   父の一生は37歳までは普通に平凡に暮らせたのではないでしょうか。父は終戦を山口県の防府市(三田尻の福島人絹の会社で工場長をしていました今の協和発酵の場所です)と母は伊万里で迎えたのだと思います。途中父の実家の没落それによって長崎の八幡町や伊良林の40ほどあった家の全ての家屋を借金に取られて一家は多分稲佐山の下にある昔は船で渡り別荘にしていた平戸小屋と言う場所に移り住んだのだと思います。その為に爆心地から離れた場所にいた兄弟姉妹は原爆の被害はある程度少なく済んだのではないでしょうか。母もまた32歳で後の人生は虚しさと共に生きてきたのでしょう。
《英子的成長記》 父親在 37 歲之前,或許過著平凡普通的生活吧。我猜想父親是在山口縣防府市(當時在三田尻的福島人造絲公司擔任廠長,也就是現在的協和發酵所在地)迎接戰爭結束,而母親則是在伊万里度過終戰。期間因父親老家沒落,長崎八幡町和伊良林約四十間家宅全數被債主收走,一家人可能搬遷至稻佐山腳下,過去需乘船前往的別墅區「平戶小屋」居住。正因如此,遠離爆炸中心的兄弟姐妹們,遭受原子彈的傷害或許相對較輕。母親也在 32 歲後,懷著虛無感度過餘生吧。

  

私は今年70歳になりました人生に学歴なんか必要無いというのが私と姉の考えでした学校の先生(教師)になりたくなかった父親そして私も学校の先生(教師)とだけは一緒(結婚)にはなりたくないと思っていたのにそうはならなかった人生は皮肉な物です   。2021年
我今年 70 歲了,我和姐姐都認為人生根本不需要學歷。父親不想當學校老師(教師),而我也一直覺得絕對不要跟學校老師(教師)結婚,但人生就是這麼諷刺,最終事與願違。2021 年

  姉和子7歳、叔母千枝子34歳と父母と私1951年春ここに亡くなった兄が生きていたら14歳になっていました。疎開先の母の実家で病気(自家中毒)で亡くなったのですが、口うるさい松浦の祖母と一緒にいることは兄にはストレスだったのでしょう兄はとてもデリケートで心が優しく繊細な性格だったそうです。私の母方の祖母はとても気位の高いとても口うるさい人でした。ここからそして敗戦を迎えて我が家は崩れながらも家族をやっていくのでした。でも8人の孫の中で一番末だったこともあるのか私の性格が好きだったのか私と姉が祖母には一番可愛いがられたのでした。父は複雑な気持ちだったでしょう。母の実家で息子が、死んだ事を父は母を責めたりした事はしなかったようです。私の主人なら許さなかったでしょう。私は父親に叱られたことは一度もありませんそれは姉も同じでした。母親にはよく叱られましたが、父は大人しく真面目で馬鹿正直で今思うと人生が思いどうりには行かず時代の波に翻弄されながら生きていた父は気の毒だったんだと思うようになったのは私が30代後半頃でした。
姊姊和子 7 歲、姑姑千枝子 34 歲,與父母和我。1951 年春天,若已故的哥哥還在世的話應該 14 歲了。哥哥是在疏散到母親娘家時因病(自家中毒)過世的,或許是因為和愛嘮叨的松浦祖母同住對哥哥來說壓力太大了吧。聽說哥哥是個非常敏感、心地善良又纖細的人。我母親那邊的祖母是個心氣很高又特別愛嘮叨的人。從這裡開始,即使迎接戰敗後家道中落,我們還是努力維持著這個家。不過在八個孫子當中,或許因為我是最年幼的,也可能是祖母喜歡我的性格,我和姊姊最受祖母疼愛。父親的心情應該很複雜吧。他似乎從未因兒子在母親娘家去世而責怪過母親。換作是我丈夫的話肯定不會原諒的。我從未被父親罵過,姊姊也是。雖然常被母親責罵,但父親是個溫和、認真又老實的人,現在回想起來,他的人生未能如願,被時代浪潮擺布著過活,直到我三十多歲後才漸漸覺得父親真是可憐。

   

伊万里母方の祖母の実家の屋敷にて 何かのお祝いに集まっているのでしょう1937年秋私が生まれる14年前叔母千枝子、祖母エツ、従姉邦栄、母典子、従兄俊輔、祖父の姉シゲ(私の戸籍上の祖母です)、兄修、父卯之吉、私の兄は終戦の一ヶ月前に8歳で亡くなりました。私の兄が生きていたら今年で84歳になります。生きていてくれたら私達姉妹と父母の人生は違っていたでしょう戦争の被害は我が家にもかなりの影響を受けました。この家はその後何人もの人手に渡り今は更地になって草がぼうぼう生えていて昔を偲ばせる物は塀だけになっています。
在伊萬里母親娘家祖宅的宅邸裡,大概是為了某個慶祝活動而聚集吧。1937 年秋天,這是我出生前 14 年。照片中有千枝子阿姨、阿嬤阿惠、表姐邦榮、媽媽典子、表哥俊輔、祖父的姐姐阿重(是我戶籍上的祖母)、哥哥修、父親卯之吉。我的哥哥在戰爭結束前一個月,年僅 8 歲就過世了。如果哥哥還活著,今年應該 84 歲了。要是他能活下來,我們姐妹和父母的人生應該會完全不同吧。戰爭的傷害對我們家也造成了相當大的影響。這棟宅邸後來幾經轉手,如今已成為一片長滿雜草的空地,只剩下圍牆還能讓人緬懷往昔。

松浦エツ私の祖母です私の山口の祖母はエツの夫(私の祖父)の姉になります私の母の伯母さんが未亡人になり子供がいなかったので母が4歳の時に山口の養女になりました。この500坪ほどのお屋敷は松浦の祖母の生まれ育った場所で私のひいおばあさんの世話をした祖母エツの妹のトモさんがこの土地をもらったそうです。そしてトモさんのご主人がシアトルのアメリカ暮らしが長かったので、洋風の家に建て替えたのです。一階と二階に水洗トイレがあってとても珍しかったのを覚えています。階段もお客様用と女中さん用と二つありました。松浦の祖母は兄が一人いて百太郎、イマ、カネ、エツ、トモの4姉妹でした。この家の持ち主のトモさんは母の叔母にあたる人でしたが、人の不幸の上に築いた幸せでしたので、その幸せは長続きはしませんでした。
松浦惠津是我的祖母,而我的山口祖母則是惠津丈夫(我的祖父)的姊姊。由於我母親的伯母成為寡婦且沒有子嗣,母親在四歲時被收養到山口家。這座約 500 坪的宅邸是松浦祖母出生成長的地方,據說照顧我曾祖母的祖母惠津妹妹——智女士繼承了這塊土地。由於智女士的丈夫長期在美國西雅圖生活,因此將房屋改建為西式風格。我記得當時一樓和二樓都設有抽水馬桶,這在當時非常罕見。樓梯也分為客人用和女傭用兩道。松浦祖母有一位兄長百太郎,以及伊萬、金、惠津、智四姊妹。這棟房子的主人智女士雖然是母親的阿姨,但這份建立在他人不幸之上的幸福並未能長久持續。

1940年代頃のようです。戦後人手にわたり何度も持ち主が変わったこの家を主人が買ってもいいといってくれましたが、市役所に勤めていた従兄弟に止められました。税金は高いし土地を切り売り出来ない場所に建ててあるのでやめなさいと言われやめたのです。今はもう従兄弟は亡くなりましたが、感謝しています。交通がとても不便な場所なので正解でした。その頃の台湾は不安定な時代で戒厳令がまだありましたので日本に家を持ってるほうがいいのではないかと考えていました。でも考えた挙句台湾に家を買って今は良かったなと思います。台湾の人達はほとんどの人が(限られた人たちですが)アメリカに移民していた時代でした。
看起來是 1940 年代左右。戰後這棟房子幾經轉手,換過好幾任主人,當時雖然有人願意賣給我們,但在市政府工作的堂兄弟勸阻了我們。他說這裡稅金高,而且房子蓋在不能分割出售的土地上,還是別買比較好,於是我們就打消了念頭。如今那位堂兄弟已經過世了,但我仍心懷感激。因為那地方交通非常不便,他的建議是對的。那時的台灣還處於戒嚴時期,社會動盪不安,我們也曾考慮過在日本置產或許比較好。但經過深思熟慮後,最終決定在台灣買房,現在想來真是正確的決定。當時台灣人(雖然是有限的一群人)大多正流行移民美國的風潮。

1940年頃の叔母さん松浦千枝子(伊万里のお屋敷にて)私の叔母さんはこのお屋敷の前に有る隠居所として作られた家を祖父が建て替えた後にすぐ祖父は亡くなりその後祖母(エツ)と叔母が二人で暮らしていました。畑と庭があっていつも花が咲いていました。夏休みに遊びに行くと井戸にスイカが冷やしてあって手回しのミキサーでよくミルクセーキを作って食べさせてくれました。厳しい人でしたが、優しい人でした。私と姉は千枝子姉ちゃんとよんでいました。叔母は朝晩般若心経を読んでいたので私も小学生でしたが覚えていましたが今は忘れてしまい半分位しか覚えていません。
1940 年左右的松浦千枝子阿姨(在伊萬里的宅邸)我的阿姨在這座宅邸前方原本作為隱居處所建造的房屋,在祖父改建後不久祖父便過世了,之後便由祖母(阿惠)與阿姨兩人共同生活。那裡有田地和庭院,總是開滿鮮花。暑假去玩的時候,井裡總會冰著西瓜,還常用手搖式攪拌機做牛奶冰沙給我們吃。雖然是個嚴格的人,但也很溫柔。我和姊姊都叫她千枝子姊姊。阿姨早晚都會誦讀般若心經,所以雖然我還是小學生時就背起來了,但現在已經忘記,只記得大概一半左右。

 

     

チワワのラッキー佐世保山手町1962年頃私の命の次に大事な犬でした甘い柿の木とくちなしの花の木と桃の木と南天の木が庭にはありました。台湾の家はほぼ庭がある家はありません。ですから花の市場でこれらの木を見るとこの頃を懐かしく思い出します。父は戦後は今までのエリートの人生がひっくり返り40歳で高校の先生になって私達を育ててくれました。あの頃は日本中が貧しかったですが、振り返ればささやかな生活の中にも未来に希望だけは持ちながら生きていたと思います。小学3年生から6年生迄先生はあなたのお父さんは帝国大学を出ているのにと、よく嫌味を言われていました私は勉強は嫌いでした。私は学歴のない父親でも平和で家庭的な父親がほしかったのです東京大学を出ていても不幸な人はいっぱいいます勉強だけをそれのみをして来た人は他の部分の対応があまり上手ではないようです更に挫折には特に弱いと思います。ラッキーの写真はこの一枚だけしかありません。父の不注意でラッキーを無くしてしまいましたこのことだけは今でも私は親である父を恨んでいます高校の制服の支払いを待ってもらったり高校の修学旅行に行かなかったりしたのは何とも思っていません恥ずかしいとも思いませんでした。お金が無いのだから仕方ありません。でもわざわざ長崎の父の知り合いから分けてもらった犬と楽しく生活していたのにくださった方にホントに申し訳ないと大きくなってから思いました。私がチワワが欲しいと言わなかったらラッキーは長崎の家で幸せにかわいがられていたはずです父が酔っぱらってタクシーになぜか乗せて何処に行こうとしていたのか早岐のガソリンスタンドでうちの近くの八百屋のおじさんがタクシーの運ちゃんをしていてドアを開けた時に外に飛び出したらしいのでガソリンを入れるためにそこに止まったのか?父親が、おしっこがしたかったのかもしれませんが、いなくなったそうです佐世保の山手町からはとても遠くラッキーが走って帰れないところでした。母がバスに乗って探したりしましたがダメでした昭和37年頃の8月30日の事です。悪いのは私の父でその運ちゃんも動物が好きな人なら又違っていたかもしれません私の父はアル中でした。あの後ラッキーはどれだけうちを探しただろうと思うと悲しくてやりきれませんでした。この頃から私は酒を飲まない人と結婚することを心に誓ったのです。今なら広告などを出して何とか見つけ出すのでしょうが、小学生の私にはどうすることもできませんでした。私は何故こんな家に生まれたのだろうと思うようになっていました。父はもっと母に息子を死なせたことを怒鳴り散らせば良かったのです。酒の力を借りずに周りに思うままに思いっ切り腹を立てたら良かったのです。我慢なんかしなくてもよかったのです。私の母方の疎開先の祖母(松浦エツ)に怒鳴っても良かったのです。父は37歳から亡くなる60歳迄の人生は生きていても心は死んでいたのだと思います。気の毒な人生でしたが、最後亡くなるときは普通に会話してたのにソファーで深呼吸を3回してから亡くなったのですが、きっと神様が最後は楽な死に方をさせてくれたのだと思いました。それだけは幸せだったと思うのです。
《英子的成長記》 在佐世保山手町約 1962 年時,有隻名叫 Lucky 的吉娃娃,是僅次於我生命般重要的狗。庭院裡種著甜柿樹、梔子花樹、桃樹和南天竹。在台灣幾乎找不到有庭院的房子,所以每當在花市看到這些樹木,總會讓我懷念起那段時光。 戰後,父親從原本的精英人生徹底翻轉,40 歲時成為高中老師養育我們。那時全日本都很貧困,但回想起來,即使生活簡樸,我們仍懷抱著對未來的希望活著。從小三到小六,老師常諷刺說:「你父親明明是帝國大學畢業的...」其實我很討厭讀書。我寧願要一個沒有高學歷卻平和顧家的父親——就算東大畢業,不幸的人也多的是。那些只會讀書的人,往往在其他方面不太擅長應對,尤其面對挫折時特別脆弱。 Lucky 的照片只剩這一張。因為父親的疏忽弄丟了牠,這件事至今我仍怨恨著身為人父的他。高中制服延後付款、沒參加畢業旅行這些事我都不在意,也不覺得羞恥,畢竟沒錢就是沒辦法。但長大後越想越對不起當初特地從長崎熟人那裡要來 Lucky 的人家——如果當初我沒吵著要養吉娃娃,Lucky 本該在長崎過著受寵的幸福生活。 據說父親酒醉後不知為何帶牠搭計程車,在早岐加油站時(可能是要加油?或是父親想上廁所?),被附近菜攤老闆開計程車門的瞬間,Lucky 衝出去就再也找不到了。從佐世保山手町到那裡太遠,牠根本跑不回來。母親曾搭公車去找,但終究沒找到。那是昭和 37 年 8 月 30 日左右的事。錯全在父親,若當時司機也是愛狗人士或許結局會不同...父親是個酒鬼。後來每想到 Lucky 該有多努力想找路回家,我就難過得不能自已。從那時起,我就暗自發誓將來要嫁給不喝酒的人。 現在的話還能登廣告協尋,但小學生的我實在無能為力。我開始怨恨為何生在這種家庭。父親本該對害死兒子的母親大發雷霆的,就算不借酒勁,也該盡情對周遭發洩怒氣才對,根本沒必要忍耐。就算對我在母方疏散地(松浦阿嬤家)大吼大叫也好過現在這樣。父親從 37 歲到去世的 60 歲這段人生,雖然活著但心已經死了。這是一段可憐的人生,不過在最後離世時,他還能正常對話,只是在沙發上深呼吸三次後就過世了。我想一定是神明讓他在最後得以安詳地離開。光是這一點,我覺得他還是幸福的。

     

 長崎に東京から帰省した父と叔母夫婦と従妹従弟1929年頃です。長崎の父の実家の写真は残っていません。私の兄が亡くなった時に父は気力を無くし絶望してアルバムを全て燃やしたそうです父の実家は貿易商で母方の祖父はリンガー商会の支配人をしていました。私の父方の祖母トモはいつもトーマスグラバーの息子さんとグラバー邸の庭で遊んでいたそうです。この頃は世界大恐慌の時代で実家の祖父は先物取引でかなりの財産をなくしたそうです。栄枯盛衰栄えたものは必ず滅びます。それが世の常です。
《英子的成長記》 大約 1929 年,從東京返回長崎老家的父親與叔父叔母一家及堂弟妹們的合影。可惜長崎父親老家的照片都沒能保存下來。聽說在我哥哥去世時,父親萬念俱灰,把所有的相簿都燒掉了。父親老家經營貿易生意,外祖父曾任林格商會的經理。據說我父親的祖母"智"小時候經常和托馬斯·格拉巴爾的兒子在格拉巴爾宅邸的庭院裡玩耍。那時正值世界經濟大蕭條時期,聽說祖父因期貨交易損失了大筆家產。盛極必衰,榮華富貴終有盡時,這就是人世間的常理啊。

 

お正月か七五三に着物を着せてもらっているのだと思います1956年頃
我想這應該是在新年或七五三節時讓我穿上和服的照片,大約是 1956 年左右

 

テリアのロン、ロンは私達が佐世保の梅田町に住んでいた頃に姉が拾ってきた保護犬でしたロンはラッキーの前に飼っていた犬です。
《英子的成長日記》 在我們還住在佐世保梅田町的時候,姐姐撿回來一隻名叫龍的梗犬。龍是我們在養幸運之前飼養的狗狗。

 

姉16歳と 私9歳とロン山手町  1960年頃です後ろに昭和の懐かしいゴミ箱があります姉とは7歳も違っていたのでいつも犬と遊んでいるか近所の仲良しとあそんでいました。
姐姐 16 歲和我 9 歲在龍山手町 大約 1960 年 後面有個令人懷念的昭和時期垃圾箱 因為和姐姐相差 7 歲 我總是和狗狗玩或跟鄰居好朋友一起玩

  

伊万里の叔母の家の畑にて1955年頃叔母37歳  1955 年左右,在伊萬里阿姨家的田裡,阿姨 37 歲

    

 

佐世保の家の庭で石蹴りなどをして遊んでいました。高校の教師の父でしたが,あまり生活に余裕はありませんでした 。この頃の楽しみはチワワのラッキーと遊んだり幼馴染と近くの山に登ってアケビを食べたりと自然の中に遊びを見付けていました。冬のボーナスが出た後に奮発してクリスマスは京町にある喫茶店白砂家の大きなケーキを母と買いに行くのです。それをラッキーと食べるのが、とても私には幸せなことでした。
在佐世保家中的庭院裡,我常玩著踢石子等遊戲。雖然父親是高中老師,但生活並不寬裕。那時的樂趣就是和吉娃娃 Lucky 玩耍,或是和青梅竹馬一起爬附近的山採摘野木瓜來吃,在大自然中尋找歡樂。冬天領到獎金後,母親會難得奢侈地帶我去京町的咖啡廳「白砂家」買大蛋糕。能和 Lucky 一起分享這份美味,對我來說就是最幸福的事。

    

1963年佐世保北高の運動会にて姉の友人と私12歳
1963 年佐世保北高運動會上與姐姐的朋友和我 12 歲

 

 

山手小学校2年生前例右側2列目から二人目 1959年春  三列目の中央の城崎賢一郎君とはいつも席が隣でした。その左隣の牟田和敏君のお母さんとは犬捕りの保健所でお互いの犬を受け取りにいった時一緒で私と母と牟田君のお母さんと二匹の犬とでタクシーで桜馬場から山手町に帰りました。担任は藤島先生でした。その後、花園中学校に進みましたが、その場所は今は私の母校(九州文化学園附属高校)の中学校と小学校になっているようです。あんなに学生が多かった花園中学校はどうして無くなったのでしょう?私は14歳の時に雷に打たれると、言うのに相応しい初恋をしました。でもその人は3300年前のツタンカーメンでした。十代の頃は歌手や映画スターなどがあこがれの対象ですが、私はそれはあまり有りませんでした。
山手國小二年級前排右側第二列的第二位 1959 年春天 與第三列中央的城崎賢一郎君總是鄰座。左邊的牟田和敏君的母親,曾在捕捉流浪狗的保健所與我們相遇,當時我與母親、牟田君的母親,以及兩隻狗一起搭乘計程車從櫻馬場返回山手町。班導師是藤島老師。後來升學至花園中學,但該校址現在似乎已成為我的母校(九州文化學園附屬高中)的國中部與小學部。當年學生眾多的花園中學為何會消失呢?我在 14 歲時經歷了一場堪稱「被雷擊中」般的初戀。但對象卻是 3300 年前的圖坦卡門。青少年時期通常會崇拜歌手或電影明星,但我卻不太有這樣的傾向。

   

修学旅行六年生長崎原爆平和公園二列目の左から三人目1963年春  その後転校後に葉書をくれた可愛くておませな北川陽子ちゃんはお元気でしょうか?永見喜久代ちゃんには修学旅行の時にお世話になりました。この時長崎のペンギンランドに立ち寄った私は、トイレから集合場所までの所が分からなくなってしまったのですが、神近光代ちゃんが、待っててくれてバスまで連れていってくれました。光代ちゃんはとても勉強ができる人でしたが、落ちこぼれの私に親切にしてくれる人でした。中野成子ちゃん立石和子ちゃんともよく遊んでました。ある日、私達の小学校の全員にコカ・コーラが配られたことがありました。私と同じクラスのガキ大将だった木村君とコカ・コーラとロゴマークの赤い鉛筆を取りに行ってクラスの皆に配りました。60年近く前の事でそれから私達はティーンエージャーになりいつもコカ・コーラやファンタオレンジを飲むようになったのでした。あの頃のアメリカはとても豊かで羨ましく思ったものでした。
《英子的成長記》 六年級修學旅行時在長崎原爆和平公園,從左邊數來第三排第二位的 1963 年春天。後來轉學後寄明信片給我的,那個可愛又早熟的北川陽子同學,不知道現在過得好嗎?永見喜久代同學在修學旅行時照顧了我很多。那時候我在長崎的企鵝樂園迷路了,找不到從廁所到集合地點的路,幸好神近光代同學一直等著我,還帶我回到巴士上。光代同學成績非常優秀,卻對我這個吊車尾的學生特別友善。中野成子同學和立石和子同學也經常和我一起玩。有一天,我們小學全校每個人都分到了一瓶可口可樂。我和班上那個孩子王木村君一起去領可口可樂和印有 logo 的紅色鉛筆,回來發給全班同學。這已經是將近 60 年前的事了,後來我們都成了青少年,總是喝著可口可樂和芬達橘子汽水。那時候的美國在我們眼中真是富裕得令人羨慕啊。

   

  

1966年九州文化学園 高等学校入学 中央の校長先生の後 が、私です楽しい三年間でした。その三年後父は私が18歳の時に亡くなりました母は長命でそれから43年後2012年私が61歳の時に98歳で亡くなりました。安部校長先生右隣峰教頭先生左隣担任の徳村先生二年生の時は荒木尚先生三年生の時は校長先生のご長男の芳樹先生で皆さんにとても良くして頂き感謝申し上げます。購買部でお昼を手伝っていましたが楽しい時間でした。礼儀作法やお掃除などにとても厳しい学校でしたが、そのことが苦になったことはありませんでした。
1966 年九州文化學園 高等學校入學 站在中央校長先生後面的就是我。那是快樂的三年時光。三年後,父親在我 18 歲時過世了。母親很長壽,43 年後的 2012 年,當我 61 歲時,她以 98 歲高齡離世。安部校長先生右邊是峰教頭先生,左邊是班導師德村先生。二年級時是荒木尚先生,三年級時由校長先生的長子芳樹先生擔任導師,承蒙各位老師的悉心照顧,在此深表感謝。當時我還在福利社幫忙準備午餐,那段時光非常愉快。雖然學校對禮儀規範和打掃要求非常嚴格,但我從不覺得這些規定是種負擔。

 

     

1968年 高校生夏の制服の私と竹馬の友の龍子ちゃん17歳私たちの付き合いは8歳からもう62年になります  今も主人と大阪に旅行に行くと必ずホテルまで神戸から会いに来てくれます。龍子ちゃんにも孫が生まれ今はその手伝いに忙しそうです。私の孫たちも高校生になって丁度この頃の私たちと同じです。龍子ちゃんは私の両親が、とても好きで何時でもいやな顔をせずに迎えてくれたことなどをよく話しています。私の父はお酒を飲まないときは穏やかな人でしたし母はいつも人に施す人でした。私が知らなかった出来事をとてもよく覚えていてとても懐かしい私の両親の話をしてくれます。
1968 年 穿著夏季制服的高中生我與青梅竹馬的龍子 17 歲 我們的友誼從 8 歲開始至今已 62 年了 現在每當我和丈夫去大阪旅行時 她總會特地從神戶趕到飯店來見我 龍子現在也當了奶奶 忙著幫忙帶孫子呢 我的孫子們也都上高中了 正好是當年我們這個年紀 龍子常說她很喜歡我的父母 因為他們總是笑容滿面地歡迎她 我父親不喝酒時是個溫和的人 母親則是樂善好施的類型 龍子總能說出許多連我都不知道的往事 聽著她述說關於我父母的回憶 真是令人懷念

 

    

夫となる宗仁との出会い 1972年秋 主人とまだ国際結婚が珍しかった頃ですが、なんとなく心が惹かれたのとお酒を一滴も飲まない人だったからです。この人と一緒になったら家庭は平和だろうと思っていたのでした。主人は私の父とは、ま反対の人で、短気な人でした。お互いのホントの性格は結婚してから段々とわかることで、全く違う国、違う家庭で育ち文化も習慣も違うのですから主人も何もわからず連れてきた私に悩んだでしょう。私もとても悩みました。私は日本で就職をしてくれるのだど思っていましたが、主人はやはり自分の国で働いたことは正解でした。多分日本の大学に就職しても日本人独特の習慣にはついてはいけなかったでしょうし長くは続かなかったでしょう。私が台湾の習慣や文化などに合わせていくことが、私の性格から人に合わせるのは嫌では無かったから可能だったのです。その分自己主張はあまりしません。だからこの国で主人ともこんなにも長い間一緒に歩んでこれたのでしょう。主人は台湾人(戦前から住んでいる人達)です。戦後に蒋介石と中国から来た百万人の人たちを外省人と呼びますが、この人達の父親や夫はほとんどが軍人です。人口は圧倒的に本省人と呼ばれる台湾人(80%)が多いです。外省人と結婚するの悪くないかもしれません。彼らは外では働いて家の中では家事を一切やってくれて食事も作ります。奥さんは何もしなくてもいいのです。
《英子的成長記》 與丈夫宗仁的相遇 1972 年秋天 當時和先生結婚時國際婚姻還很罕見,但不知為何就是被他吸引,加上他是滴酒不沾的人。我想和這個人在一起的話,家庭應該會很平和吧。先生和我父親是完全相反的人,是個急性子。彼此真正的性格都是結婚後才逐漸了解的,畢竟是在完全不同國家、不同家庭背景下成長,文化和習慣也都不同,先生想必也為了一無所知就把我帶回來而苦惱過吧。我也曾經非常煩惱。我原本以為他會在日本就職,但先生選擇在自己的國家工作果然是正確的決定。就算在日本的大学就職,大概也無法適應日本人獨特的習慣,應該也做不長久吧。因為我的個性並不排斥配合他人,所以才能夠適應台灣的習慣和文化。相對的我也就不太會堅持己見。正因如此,才能和先生在這個國家一起走過這麼長的歲月吧。先生是台灣人(戰前就居住在此的人們)。戰後隨著蔣介石從中國來台的百萬人則被稱為外省人,這些人的父親或丈夫幾乎都是軍人。人口壓倒性多數是被稱為本省人的台灣人(佔 80%)。和外省人結婚或許也不錯。他們在外工作,在家裡會包辦所有家務還負責煮飯。太太什麼都不用做。

 

 高千穗に運転免許取り立てだった主人のポンコツ車でドライブに行ったのですが、途中溝にタイヤがはまってしまったのですが通りがかりの親切な人が助けてくれました。今なら怖くて乗らないでしょう。1972年11月
《英子的成長紀錄》 當時剛拿到駕照的先生開著他那台破車帶我去高千穗兜風,結果途中輪胎卡進水溝裡,幸好遇到路過的好心人幫忙。現在想起來還真不敢再坐那輛車了。1972 年 11 月

 

  

平戸にドライブ私の実家からは近いです  開車到平戶 離我老家很近

 

21歳私は50年ほど前に髪を染めていたので今はグレイヘアにしています。当時はまだミニスカートが流行っていて歌舞伎の緞帳というのか幕というのでしょうかその柄のセーターが流行していました。
《英子的成長記》 21 歲的我,大約 50 年前曾經染過頭髮,所以現在已經是灰白髮了。那時候迷你裙正流行,還有種叫做歌舞伎緞帳(或是說帷幕?)花紋的毛衣也很受歡迎。

 

平戸のお寺  平戶的寺廟

 

1972年11月雲仙にて  1972 年 11 月於雲仙

 

   

  台湾に出発する日結婚式をする為  福岡の新婚生活   1974年6月主人28歳私23歳。
出發前往台灣的日子 為了舉行婚禮 在福岡的新婚生活 1974 年 6 月 丈夫 28 歲 我 23 歲

 

 

福岡の荒江四つ角のアパートに住んでいたころは主人とても勉強家で真面目な人でした
住在福岡荒江四丁目公寓的時候,先生還是個非常用功又認真的人呢

 

1974年の冬福岡の西区のアパートでの新婚生活で長女が産まれるまで東南アジアの輸入小物を扱っている会社で事務をしていました。その会社の先輩の事務の女性はとても親切な方で一つ一つ事務の基本などを教えてもらい(バランスシート)貸借対照表や源泉徴収などのやり方を習いました。そこでソロバンを覚えて今も毎日家計簿を付けています。その方にはとても感謝しています。子供さんが三人になったと聞きましたが今は何処におられるのかはわかりません。実家は飯塚だと聞いています。もう一度会いたい人です。日本人はエプロンを着けけますが台湾の女性はしません私は今もエプロンは毎日着けています。荒江の四つ角のアパートに住んでいる頃でしたが近くのある公務員の宿舎で母娘の心中事件が起きてお母さんと中学生と小学生位の女の子が亡くなりました桃のお節句だったのでちらし寿司の出前の器がおいてあって小鳥が二匹死んでいてガス自殺でした。この旦那さんは42歳で奥さんは夫の女性関係で悩んでいたと言うのが原因でした私は他人事ながらこの旦那さんに非常に腹が立ったのを覚えています。この旦那さんが存命なら87歳になっているでしょう。娘さん達も生きていたら50代後半になっていたはず人の力ではどうにもならないことがあるのだとつくずく思うのでした。この世はどうしてこんなにも辛いことばかりなのでしょう。
1974 年冬天,在福岡西區的公寓展開新婚生活,直到長女出生前,我在一家經營東南亞進口小商品的會社擔任事務工作。那位會社裡的前輩女職員非常親切,手把手教會我事務基礎——從資產負債表到薪資預扣稅的處理方法。在那裡學會了珠算,至今我仍每天用算盤記家計簿。對那位前輩始終心懷感激。聽說她後來生了三個孩子,但如今不知去向,只記得老家在飯塚。她是我一直想再見一面的人。日本女性習慣穿圍裙,但台灣女性不這麼做,而我至今仍每天繫著圍裙。 住在荒江十字路口公寓時,附近公務員宿舍曾發生母女攜子自殺事件。那天正值女兒節,外送的散壽司食盒還擺著,兩隻小鳥與母女三人——母親、中學年紀和國小左右的女兒——都因瓦斯自殺身亡。據悉這位 42 歲的丈夫因外遇問題讓妻子陷入絕望。雖是他人之事,我至今想起仍對那位丈夫感到憤怒。若他還活著,現在該有 87 歲了吧。若女兒們還在世,也該是年近六十的人了。這讓我深刻體悟到:世上確實存在人力無法挽回的悲劇。人世間為何總有這麼多苦難呢?

 

 

1974年6月台北国賓飯店で結婚式  このブーケは博多のデパートで注文し作ってもらったものです私が作ったリボンフラワーのブーケは主人の姪のフラワーガールに持っていきました。当時リボンフラワーが日本では流行っていたのですが台湾では花が安くて本物の花でもよかったのですが台湾の事情はその時私はわかってないので、でもこのブーケを主人の父がとても気に入り綺麗だからと硝子ケースに入れて主人の実家に飾っていました。主人の父はとてもオシャレな人でした。結婚式の時には99パーセントの人がラブラブでしょう。1パーセントの人がたまに大丈夫だろうかと思いながら結婚式をするかもしれません。私と主人も99パーセントの中に入りましたが、その後夫婦のおおかたの妻(たまに夫)は人の心は変わるのだと言う事を人生の途中で経験するのでしょう。虚しい事です。作家の瀬戸内寂聴さんが、いつもおっしゃっている言葉に雷が落ちてきたら防げないのだと、別の人を好きになるということは、その雷に打たれるしかないと言っておられました。確かにどんなに愛し合っていても防げないことは人生にあるのです。どんなに愛を神様の前で誓ってもそれは無意味な事でしかないのです。数千年前もアブラハムとサラの時代から人は間違った道に進んでしまうのです。
1974 年 6 月台北國賓飯店舉行婚禮  這束捧花是在博多的百貨公司訂製的。我親手製作的緞帶花捧花則讓丈夫的姪女擔任花童時拿著。當時緞帶花在日本正流行,雖然台灣鮮花價格便宜,用真花也不錯,但那時我還不了解台灣的狀況。不過這束捧花深得公公喜愛,他覺得太美了,特地用玻璃罩珍藏起來,擺放在丈夫老家。公公是個非常時髦的人呢。舉行婚禮時,99%的新人應該都沉浸在熱戀中吧。或許有 1%的人會邊舉行儀式邊暗自擔憂「這樣真的沒問題嗎」。我和丈夫原本也屬於那 99%,但後來就像多數夫妻中的妻子(偶爾是丈夫)一樣,在人生旅途中終究體會到人心易變的道理。真是空虛啊。作家瀨戶內寂聽女士常說的話讓我茅塞頓開——「若被雷劈中是防不了的」,愛上別人就像被那道雷擊中,只能承受。確實,無論多麼相愛,人生總有些事無法防範。即使在神明面前許下愛的誓言,終究只是徒勞。數千年前從亞伯拉罕與撒拉的時代開始,人類就總會誤入歧途啊。

 

   

夏の絽の着物は、母と伯母が着せてくれました。この時付けていた翡翠のイヤリングとハートの指輪は、兄嫁とお揃いで主人の父から頂きました。この時のイヤリングは古希のお祝いの時にもつけました指輪の方は娘が結婚する時にあげました。
夏日的羅紗和服,是母親與伯母為我穿上的。當時佩戴的翡翠耳環與心形戒指,是與嫂嫂成對、由公公所贈。這副耳環在古稀之賀時也曾佩戴,而那枚戒指則在女兒出嫁時轉贈給她了。

 

  

台北の主人の家です頂いた花籠もやはり赤い薔薇です白いブーケを持つと親戚から色々いわれますよ、と私の髪をセットしてくださった日本人の美容室をやっている方に教えてもらいました。丁度私はピンクのブーケを持ってきていたので良かったと思ったのですそうゆう台湾の習慣は主人からは聞いていていなかったのでこの方の助言は助かりました。
《英子的成長記》 這裡是台北的主人家。收到的花籃依然是紅玫瑰,聽說拿著白色花束會讓親戚們說閒話呢——這是一位幫我做頭髮、在台灣開日式美容院的日本老闆娘告訴我的。剛好我帶的是粉色花束,真是太好了。這樣的台灣習俗之前都沒聽主人提起過,這位老闆娘的建議真是幫了大忙。

 

台北の主人の家で主人の両親が作ってくれた中国服を着ていますこちらの習慣ではお嫁さんは赤い色を付けることを縁起がよいとされる為私の髪飾りは真っ赤な薔薇を美容院の方が後ろにさしてくれましたその時は内心ブーケとお揃いのピンクの薔薇が良かったのですが郷に入っては郷に従えですから美容室の日本人の方の絶対に赤い薔薇でないとだめですと言われてそうしたのでした。
在台北的主人家裡,穿著主人父母為我準備的中式禮服。按照這邊的習俗,新娘佩戴紅色飾品被視為吉祥,所以美容院的老師在我髮髻後方別上了一朵鮮紅的玫瑰。其實我內心更想要搭配捧花的粉玫瑰,但入鄉隨俗嘛,美容院的日本老師堅持說非得用紅玫瑰不可,最後就這麼打扮了。

 

   

結婚式  国賓飯店主人の両親私の母と伯父これは結婚の登録をしているところです主人と私の代わりに主人の甥と姪が印鑑を押しているところです。父親の代わりに伯父が、台の上に上がってくれました。伯父は小学校の校長先生でした。
婚禮 國賓飯店主人的父母我的母親與伯父這是在辦理結婚登記的場景由主人的姪子與姪女代替主人與我蓋章。伯父代替父親上台致詞。伯父曾任小學校長。

 

台北国賓飯店主人の両親と私の母主人の母が着ているレースの茶色のチャイナドレスは私が博多のデパートの生地コーナーで主人と選んだ品です確か台湾に持って行って専門の人が家にきて寸法を測り確か翌日とかに仕上がっていたようでその速さにビックリしたのでした。
《英子的成長記》 台北國賓飯店主人的父母和我母親主人母親所穿的蕾絲棕色旗袍,是我和主人在博多百貨公司的布料區挑選的。記得當時帶回台灣後,有專業師傅到府丈量尺寸,大概隔天就完成製作,那種速度真是令人驚嘆。

 

台北国賓飯店摘星閣(星を摘む場所の意味です)兄夫婦と主人の両親。主人の両親は、日本教育を受けていましたので日本語が話せました。3人の姉も同じで兄嫁も少し話せました。とても親日家だったので私との結婚はあまり反対されませんでした。
《英子的成長記》 台北國賓飯店摘星閣(意指摘星之處)與兄嫂及公婆同住。由於公婆曾受日本教育,因此能說日語。三位姊姊也是如此,連嫂嫂也能說上幾句。因為全家都是親日派,所以對於我們的婚事並沒有太多反對意見。

 

私達の結婚式の手伝いをする主人の甥と姪たちフラワーガールで一番大きな姪は私と同い年です1974年6月左から四姉の長男三姉の長男三姉の次女大姉の長女三姉の長女前列左四姉の次女五姉の長女その時主人には上は23歳から下は8ヶ月の計15人の甥と姪がいました。私の方は姉の息子3歳が一人でした。
在我們婚禮上幫忙的老公的姪子和姪女們,擔任花童的最大姪女跟我同年,1974 年 6 月。從左起分別是:四姐的長子、三姐的長子、三姐的次女、大姐的長女、三姐的長女。前排左起:四姐的次女、五姐的長女。那時老公的姪輩從 23 歲到 8 個月大總共有 15 人,而我這邊只有姐姐的 3 歲兒子一人。

 

1975年結婚一年後に台北の父母に挨拶に帰国  台北松山空港にて  この時インフルエンザにかかってしまって台北の正月は当時は暖房がありませんでしたので、とても寒くて主人の母に中国の綿入れを借りました。玉山という山(ニイタカヤマノボレ)で、有名ですが雪が積もるそうです。
1975 年結婚一年後回台北向父母請安 在台北松山機場 當時得了流感 台北的春節那時沒有暖氣 非常寒冷 向丈夫的母親借了中國式棉襖 玉山這座山(新高山)很有名 聽說會積雪

 

 

九州大学の恩師井島博士のお宅にお年賀に行きました。先生のご自宅は今宿で子供さんが、三人おられました。一番上のお嬢さんは私と同じ年で、その後九大の篠原教授の息子さんと結婚されたそうで、井島教授と篠原教授がご夫婦で台湾にお見えになった時、井島教授夫人からお聞きしました。お嬢さんには子供さんが三人お出来になったとお聞きしましたが、今はお元気なのかなと懐かしく思い出されます。子供時代を台湾で過ごされた井島教授には大変主人がお世話になりました。  1975年正月 主人は1971年(昭和46年)に国費留学生として日本に来て修士課程と博士課程を終えて1977年(昭和52年)に主人31歳私26歳長女6ヶ月を連れて台北に帰国しました。その頃は日本に里帰りするのに手続きが台湾では一か月必要でしたから夫婦喧嘩をしても一か月後しか出国ができないので馬鹿馬鹿しい限りで元のさやに収まるのでした。私の実家は九州なので台北まで2時間しかかかりませんが手続きが面倒で直ぐに帰国できませんでした。知り合った頃に丁度日本と中国の国交が回復した事もあり私の親戚たちはこの結婚は大丈夫だろうかと、心配していました。母は遠い北海道の人とかのほうが良かった遠くても国内だからと、よく言っていました。結婚生活は同じ国の人とでも色々在るのにましてや国際結婚は更に困難な問題が起きて来ます。
我去九州大學的恩師井島博士家拜年。老師的家在今宿,有三個孩子。最大的千金和我同歲,後來聽說嫁給了九大的篠原教授的兒子,井島教授和篠原教授夫婦來台灣時,我從井島教授夫人那裡聽說了這件事。聽說那位千金也有了三個孩子,不知道現在過得好不好,讓人懷念地想起往事。在台灣度過童年時光的井島教授,當年先生受了他很多照顧。1975 年正月 先生 1971 年(昭和 46 年)作為公費留學生來到日本,完成碩士和博士課程後,於 1977 年(昭和 52 年)先生 31 歲我 26 歲時帶著 6 個月大的長女回到台北。那時候要回日本探親,在台灣辦手續需要一個月,所以就算夫妻吵架也要等一個月後才能出境,真是荒唐至極,最後總是會和好如初。我的娘家在九州,到台北只要兩小時,但因為手續麻煩不能馬上回去。我們認識的時候正好碰上日本和中國恢復邦交,我的親戚們都很擔心這段婚姻是否妥當。母親常說,要是嫁給北海道的人就好了,雖然遠但畢竟是在國內。婚姻生活即使是和同國人都有各種問題,更何況是跨國婚姻,會遇到更多困難。

台湾基隆の海洋学院1977年9月長女10ヶ月私26歳主人31歳と一緒に遊びに来ていて帰りに祥豊街の先輩の所に寄って挨拶をしてから台北に帰りました。その時先輩の奥様から私が赤い服を着ているからと、赤いピアスを頂きました。まだこのときは大学ではなく学院でここが正門でした(今はここは裏門です)それから数年後に大学に昇格するのですが、その時教務長(副学長)だった主人が大学に昇格する文部省の条件では非常勤講師をたくさん辞めさせないといけなかったので裁員(リストラ)をした主人はとても恨まれました。汚れ役を引き受けたというところでしょう。主人は短気な人ですが、正義感はとても強く真っ当な学生が不当な扱いを受けていたりしたら必ずその学生の為に奔走するのです。いろんな人がいますから加害者が被害者の様な顔をしたり又被害者が、加害者にされたりと世の中は不条理にできています。次女を妊娠した時に大学の宿舎に引っ越しをしてきました。この場所から歩いて15分のところです。それまでは台北駅まで朝早く主人の実家からバスで駅に集合して海洋学院の大きな薄黄色のスクールバスに乗るという日々でした。このバスは大学関係者は乗れて事務員も乗れますが、学生は乗れません。基隆に越して来て通勤が、とても楽になりました。
《英子的成長記》 1977 年 9 月,當時我 26 歲、先生 31 歲,帶著 10 個月大的長女一起到台灣基隆的海洋學院遊玩。回程時我們順道去祥豐街拜訪前輩打聲招呼才返回台北。那時前輩的夫人因為看我穿著紅色衣服,就送了我一對紅色耳環。那時候這裡還只是學院而非大學,照片中這裡是正門(現在已變成後門了)。幾年後學院升格為大學,當時擔任教務長(副校長)的先生為了符合教育部升格條件,不得不裁撤大量兼任講師,因此招致不少怨恨。可以說他是主動扛下了這個吃力不討好的任務吧。雖然先生性子急,但正義感非常強,只要發現有認真向學的學生受到不公平對待,他一定會為那些學生四處奔走。這世上就是有各式各樣的人,加害者裝成受害者模樣,或是受害者反被誣陷成加害者,世事就是如此荒謬。懷著次女時我們搬進了大學宿舍,從宿舍步行到這裡只要 15 分鐘。在那之前,我們每天都得一大早從先生老家搭公車到台北車站集合,再轉乘海洋學院那輛淺黃色的大型校車。這輛校車只限教職員搭乘,連行政人員都能坐,就是不准學生乘坐。搬到基隆後,通勤變得輕鬆多了。

1978年1月11日伊万里の実家長女1歳2ヶ月で日晴れ(生まれて一か月の時にお宮参りに着せた着物です)の時の着物を着ています私の叔母が作った木目込み人形で遊んでいるところです。この時実家に三ヶ月滞在して、そろそろ台湾に戻らないといけなくなっていました。そのまま台湾に戻らずに母と娘と三人で博多で暮らす方法もあったでしょうが、娘は主人の国籍だつたので、本来ならば二ヶ月しか日本には滞在できませんから私は娘をおんぶして入管に行き一か月滞在を延長してもらいました。この時の入管の人が早く日本に帰ってきなさいといってくれたのが印象的でした。それほどみんなが台湾は危ないと思っていたのでした。その頃は主人と主人の両親と忙しく暮らしていました。当時は台湾にはスーパーも無く素朴な感じではあったのですが、それまでスライスの肉しか見たことがなかったので豚一匹の大きな肉を何処がどこの部分なのかわからずとても簡単なことが外国では難しいのです。雑貨屋で味噌を買うとハエが入ってたりして言葉は分からずかなり参っていました。豊かな時代の日本から来てカルチャーショックの毎日で、当時の日記に戻りたくないと書いていました。でも家族は一緒に暮らすべきだしと悩みながら戻っていったのを思い出します。
1978 年 1 月 11 日,在伊萬里娘家拍攝的長女 1 歲 2 個月時穿著晴日和服(出生滿月時穿去神社參拜的禮服)玩耍的模樣。當時她正玩著我阿姨製作的木目込人偶。那時我們在娘家住了三個月,即將必須返回台灣。其實也有方法可以不用回台灣,就讓母女三人在博多生活,但因為女兒是跟丈夫的國籍,原本只能在日本停留兩個月,所以我背著女兒去入管局申請延長了一個月停留期。當時入管局人員對我說「早點回日本來吧」這句話讓我印象深刻,原來大家都覺得台灣很危險。那時候和丈夫及公婆過著忙碌的生活。當年的台灣連超市都沒有,雖然感覺很質樸,但因為我只看過切片肉塊,完全分不清整頭豬肉各部位的名稱,在國外連這麼簡單的事情都變得很困難。在雜貨店買味噌時發現裡面有蒼蠅,又因為語言不通感到相當困擾。從富裕的日本來到這裡,每天都是文化衝擊,當時還在日記寫著「不想回到這樣的日子」。但想到家人應該要一起生活,最後還是苦惱著回去了。

1978年10月4日主人の台中海洋工程討論会に参加するため私と娘も一泊でついて行きました。台中の民族路29号の小さなホテルに泊まり近くのデパートで娘に靴を買いました。2020年に台中に主人と新幹線で日帰りの旅をした時にこのホテルはまだ健在でした遠い遠い昔のことになりました。
1978 年 10 月 4 日,主人為了參加台中海洋工程研討會,帶著我和女兒一起前往並住了一晚。我們住在台中民族路 29 號的小旅館,還在附近的百貨公司給女兒買了雙鞋。2020 年我和主人搭新幹線來台中一日遊時,發現這間旅館依然存在,感覺已經是好久好久以前的事了。

 

1978年10月5日主人の出張先の台中で飲茶を(大大酒店と書いてあります)食べているところです。このレストランは今もあるのでしょうか?43年も昔の事です。
1978 年 10 月 5 日 主人在出差地台中享用飲茶(寫著大大酒店)的模樣。這間餐廳現在還在嗎?已經是 43 年前的往事了。

 

1982年頃です私は生まれて初めて自分の家を持ちました。この頃が一番家庭が平和で幸せでした。いつも実家の母が私たち4人の服や日本の食料品など毎月送ってくれていたのでとても助かりました。その頃はデパートで私がほしいものは売ってなかったのですが、今は何でも揃っているので不自由はしません。今はSOGOか微風に行けば日本の食品はおおかた揃っています。私は台湾がとても好きですが、何故主人と一緒になる道を選んでしまったのだろうと、深く考える事があります。タイムマシーンが在るならみんな戻りたい時代があるのではないでしょうか。多分台湾にはついて来なかったでしょうし、もう一度人生をやり直すことができたらいいのにと思います。
大約在 1982 年,我生平第一次擁有了自己的家。那段時光是我家庭最平靜幸福的時期。當時娘家母親每個月都會寄來我們四個人的衣物和日本食品,真的幫了大忙。那時候百貨公司裡買不到我想要的東西,但現在什麼都有,完全不用擔心。如今只要去 SOGO 或微風,幾乎所有日本食品都能買到。我雖然很喜歡台灣,但有時會忍不住深思,為什麼當初會選擇跟丈夫一起走這條路呢?如果真有時光機,大家應該都有想回去的時代吧。或許我就不會跟著來台灣了,要是能重來一次人生該有多好。

 

1982年暮ここに引っ越したばかりのころですこの家は私が台北中の出来上がっているマンションをほぼ全部見て回りこの場所が気に入って買ったのでした小学校がすく前にあり、主人の大学がある基隆迄うちから高速道路で20分で着きますので、家具なども全て私の趣味で決めてその頃は駐車場を持つ習慣は台湾には無く見て廻ったなかでも2-3件位しか駐車場はついてなくて日本では当たり前だったので地下の駐車場も購入したのです。その頃は台北の端っこで田舎でしたが、今は家の前に地下鉄の駅が出来たのでとても交通が便利になりました。
1982 年暮,我們剛搬到這裡的時候。這間房子是我幾乎看遍台北所有完工的大樓後,因為喜歡這個地點才買下的。小學就在正前方,而先生任教的大學到基隆,從家裡走高速公路只要 20 分鐘就能抵達。家具擺設全都照我的喜好決定。那時候台灣還沒有附設停車場的習慣,看過的房子裡只有兩三間有停車位。因為在日本這很普遍,所以我們連地下停車場也一併買下了。當時這裡算是台北的邊陲地帶,有點鄉下,但現在家門口就蓋了捷運站,交通變得非常方便。

 

この頃は希望に満ちて子育てを頑張り家事も頑張り幸せな毎日でした長女6歳次女2歳私31歳主人36歳私の時代の教育にも関係あるでしょうが学校でも家庭でも我慢は美徳だと教えられ良妻賢母になるように躾られていてそれが当たり前ではないのだと言うことをここに来て段々と理解するようになったのです掃除、洗濯、料理など頑張ってやることはなかったのです。適当にやっていてよかったのですが、やはり文化と歴史の違いなのでしょう私の子供時代は、いつも借家住まいだった為ここのマンションが、もう一軒売りに出た時買いたかったのですが主人に反対されました。私の運命のカードの中で一番いい升目は不動産なのですが、主人は自分が思ったことは貫き通す人なのであっさりと否決されました。今は台北市の家はあの時からすると10倍の値段になり若い人たちが買える金額ではなくなってしまいました。台湾の人(中国人)は何軒も家を買います財テクがとても上手で日本人の発想にはない事です。
那時的我滿懷希望,努力育兒、認真做家事,過著幸福的每一天。長女 6 歲、次女 2 歲,我 31 歲、丈夫 36 歲。或許也與我那個時代的教育有關,無論在學校或家庭,忍耐都被視為美德,我被教導要成為賢妻良母。直到現在我才漸漸明白,那其實並非理所當然。打掃、洗衣、做飯這些事,根本不需要拼命做到完美,適度就好。這大概就是文化與歷史的差異吧。 我童年時總是租屋居住,所以當這棟公寓另一戶要出售時,我很想買下來,卻遭到丈夫反對。在我的命運卡牌中,最好的位置其實是房地產,但丈夫是個堅持己見的人,輕易就否決了。如今台北的房價已是當年的十倍,年輕人根本負擔不起。台灣人(中國人)會買好幾間房子,很擅長理財投資,這完全超出日本人的想像。

 

1983年12月24日クリスマスにブラザーホテルで主人の学生とその彼女たちも一緒に食事をしました。この頃はここは洋食をやっていて、その後バイキング、そして今は四川料理になっています。この頃、街中には中国服を着た年配者がたくさんいて仕立て屋もたくさんありました。たまに纏足をしていたようなとても小さな足の人を見かけることもまだあった時代でした。
1983 年 12 月 24 日聖誕節,我們在兄弟飯店與主人的學生們及其女友們共進晚餐。那時候這裡還供應西餐,後來改成自助餐,現在則轉型為川菜館。當時街上隨處可見穿著中式服裝的長者,裁縫店也很多。偶爾還能看見裹著小腳、步履蹣跚的老婦人,那樣的景象在當時還未完全消失。

1983年7月6日台北市の自宅でこれから学生の結婚式に出席するところです。
1983 年 7 月 6 日於台北市自宅,正準備前往參加學生的婚禮。

 

 

1983年左から兄嫁、一番上の姉、兄、四姉、五姉、二姉、主人の母、私、三姉、主人、台北のホテル五人の姉と兄嫁と私の七人は結婚後は皆専業主婦でしたが、台湾ではそれはとても珍しいことだとよく言われました。いつもお正月の里帰りの日は姉達一家が帰りますので主人が全員をご馳走していました30人以上は(3卓なので36人位)集まっていたでしょう。後は母の日やお母さんの誕生日などで集まることがたびたびありました。二姉からはお誕生日に必ず食べる豚の足の作り方を四姉からは春巻を三姉からは肉粽それと主人の母からは台湾風のフカヒレスープの作り方を教えてもらい除夜に台湾ではご馳走を作って家族で食べます姉達と母は麻雀が好きでよくみんなでやっていました。私も自分の時間がとれるようになり麻雀テーブルを買って主人に教えてもらいましたが、いつも二人でやっていました。姉や兄も亡くなっていて娘たちも一人は結婚しもう一人は留学して二人になっていました。5番目の姉が結婚するころは台湾人と外省人との結婚はタブーでした(今はどうなのか分かりません)5姉の夫は外省人だった為、主人の父はとても怒って5姉にあげるはずだった翡翠の全ての宝石を一個もあげませんでした。周家の里帰りは必ず旧暦の正月の3日と決まっていて本来は台湾の他の家では2日に嫁いだ娘たちが里帰りをしますが、我が家ではその遠い昔まだ先祖が大陸の福建省厦門にいた頃一人の周家の娘が2日に里帰りをしている途中、虎に襲われて死んでしまったそうでその後里帰りを3日にすることになったと主人の父親から聞いたのでした。その父は1978年に77歳で亡くなりました。
1983 年從左至右分別是嫂嫂、大姊、哥哥、四姊、五姊、二姊、婆婆、我、三姊、先生。在台北飯店拍攝的這張照片中,五位姊姊與嫂嫂加上我共七人,婚後都成為專職家庭主婦,這在台灣可說是相當罕見的情況。每逢春節回娘家的日子,姊姊們都會攜家帶眷回來,由先生負責招待所有親戚,人數總超過三十人(擺三桌約可坐 36 位)。此外像母親節或媽媽生日等場合也經常舉辦家族聚會。二姊教我必吃的豬腳慶生料理、四姊傳授春捲做法、三姊指導肉粽技巧,婆婆則教會我台式魚翅湯的烹調方式,讓我們在除夕夜能準備豐盛台菜全家團圓。姊姊們和媽媽熱愛打麻將,總湊在一起玩牌。後來我也買了麻將桌請先生教我,不過通常只有我們夫妻倆對戰。如今姊姊和哥哥相繼離世,女兒們一個出嫁、一個留學,家裡只剩我們兩人。記得五姊結婚時,本省人與外省人通婚仍是禁忌(現在不知是否如此),由於五姊夫是外省人,公公氣得把原本要給五姊的翡翠首飾全數收回。周家回娘家的日子固定在農曆大年初三,台灣一般習俗是初二出嫁女兒回門,但聽先生父親說,早年祖先還住在福建廈門時,有位周家女兒初二返鄉途中遭虎襲身亡,此後便改為初三回娘家。這位公公已於 1978 年以 77 歲高齡辭世。

 

 

1982年6月台湾国立海洋大学卒業式で鄭森雄学長、蔣一安教授、主人(教務長)、後ろの四人は修士課程卒業の学生たちです主人は暑い中長時間式典のガウンを着ていた為に熱中症になり点滴を打って二日間寝込んでいました主人36歳の時のことです。でも地位と名誉と権力とお金を持つと善い事がある分必ず裏に悪いことが待ち受けています。教務長と言うのは日本では副学長にあたりますが、若い時に早く出世すると男も女(あわよくば秘書になりたいなど)も見返りを求めて擦り寄って来ます。その頃主人には若いまともな独身の秘書がいました。事務員は女性が多かったようでした。綺麗だなと思う事務員は私の記憶では三人居ましたが、その中の一人の外省人の年増の人妻が、いいポストをもらいたかったのか、それが一番の目的ではなかったでしょう。目的は別にあったのです。かなり親切に積極的に胡麻を擂り色々と主人の世話をとても長い間やっていました。一番いいのは退職間際に(歳を取ってから)そう言う地位に就くのがベストでしょう。
1982 年 6 月台灣國立海洋大學畢業典禮上,鄭森雄校長、蔣一安教授、主人(教務長),後面四人是碩士班畢業的學生們。主人因為在大熱天長時間穿著典禮袍,結果中暑打了點滴臥床兩天,那時主人 36 歲。不過擁有地位、名譽、權力和金錢時,雖然會有好處,但背後必定也潛藏著壞事。教務長這個職位在日本相當於副校長,年輕時過早出人頭地的話,無論男女(有些人甚至想當秘書)都會為了謀求回報而刻意接近。那時候主人有位年輕正派的單身秘書,記得當時職員以女性居多。印象中有三位女職員特別漂亮,其中一位外省籍的中年人妻,不知是否為了謀求好職位——雖然那應該不是主要目的,她另有企圖——非常熱心主動地巴結討好,長時間無微不至地照顧主人。其實最好的情況是臨退休前(上了年紀後)才擔任這種職位最理想。

 

   

1985年夏有田の伯母の家何かの集まりに主人や子供たちとお邪魔している。
1985 年夏天,我們一家帶著丈夫和孩子們去拜訪有田的伯母家,參加某個聚會。

 

 

左から従兄のお嫁さん三人、従姉、叔母、伯母、母、私、有田の伯父さん宅  私の従兄弟たちはとても仲が良くて今もたまに博多に行くと連絡をしたり食事をしたりします
從左邊開始是三位堂兄的媳婦、堂姊、姑姑、伯母、媽媽、我,在有田的伯父家。我的堂兄弟們感情非常好,現在偶爾去博多時還會聯絡或一起吃飯

 

 

1985年11月長女がおこずかいで買ったチワワとミニピンのハーフのラッキーです膝に乗せているのは次女5歳です。鼻の所が黒くて何だか小熊のようです。ベランダの蘇鉄は主人の実家から持ってきて植えた物です私は子供の頃からの写真でしか見たことがなかった大好きなハイビスカスを近くの市場で見つけてローズ色の苗木を買って来てもう39年になりますが大きな木になって毎日のように花が咲いています。もう一度この頃に戻れたらいいのにと、思ったりします。そうしたら間違った道を選ばずに歩けるかもしれませんが、所詮無理なことです。やはり結婚は同じ国の人と一緒になったほうがいいでしょう。自分の国なら色んな事は自分で解決して処理出来ますが、外国ではいつも家事や子育て以外の事は主人に頼らないといけなかったからです。
1985 年 11 月長女用零用錢買的吉娃娃與迷你品犬混種的 Lucky。膝上抱著的是 5 歲的次女。鼻子黑黑的看起來像隻小熊。陽台上的蘇鐵是從丈夫老家移植過來的。我從小只在照片上看過最愛的朱槿,後來在附近市場發現並買了株玫瑰色的幼苗,如今已 39 年長成大樹,幾乎每天都會開花。有時會想,若能回到那時候該有多好。或許就不會選錯路了吧,但終究是奢望。果然結婚還是該找同國籍的對象比較好。在自己國家凡事都能自行解決處理,但在國外除了家務育兒外,其他事總得依靠丈夫。

 

チワワとミニピンのハーフのラッキーだいぶ歳を取った時のです私はこの犬が、一番好きでした。子どもの頃飼っていたラッキーに似ていました。 1985年11月から1997年8月迄の12年間私はいつもこの犬に癒されていました。一番苦しかった時の私をそばで見ていてくれた犬だからです。この世はやったもん勝ちの世界なのです正義は勝たない事が多いと言うこと、でも生きていかないといけないのです。私もある時期から色々苦労をしました。平和な暮らしは自分が努力しても叶わないものなのです。人は必ず何処かで苦労をする様に平等に出来ているのでしょう。思いもよらないことが押し寄せてきますが、その嵐を夫婦で乗り越えられることはありませんでした。それは不可能な事でした。その時期は娘が悩みを聴いてくれて相談に乗ってくれて一緒に乗り越えたのだと思います。嵐が過ぎるまで12年が過ぎていきましたが、私は耐えて暮らしました。日本に娘二人と犬を連れて帰り母子家庭になって働いて育てて行く勇気と自信は私にはありませんでした。もう中学生と小学生になっていて、台湾の学校で北京語で学んでいるのに今更どうにも出来ないし、人生は巻き戻しが出来ないのです。前を向いて進んで行くしか無いのです。死ぬより辛い事は人生でたくさんありますが、かなり子供の頃から苦労には慣れていた私でしたが、その12年近くををどうやってやり過ごしていたのだろうと思うと、主人に逆らう事もなく信じていましたが、自分の事ながら私は当時可哀想な妻だったんだと、今更ながら思うのです。長い間キッチンドリンカーになりながら食事を作っていました。やはり私は父親と同じ血が流れているのだと、父親のことを理解したのです。外省人の年増の人妻にはかないませんでしたが、私は我慢強い性格なので、どうにか生きてこれたのでしょう。一番多感な時期の13歳だった娘はそのことが終わって解決した時はもう24歳になっていて、この子のその後の人生の生き方をだいぶ変えていってしまったと思います。その娘が相手の女の自宅に電話をして引導を渡し、その女の軍人の夫も知る事となり我が家の七年間の無言電話はやっと終わりました。言葉が下手な母親に代わり凄いことをして解決してくれて、私はこの長女にとても助けられ、この子にはとても感謝しています。
《英子的成長記》 這是吉娃娃和迷你品犬混種的幸運,當牠年紀相當大的時候,我最喜歡這隻狗了。牠很像小時候養的幸運。從 1985 年 11 月到 1997 年 8 月的 12 年間,這隻狗總是能治癒我的心。因為牠是陪伴我度過最痛苦時光的狗。這個世界是勝者為王的世界,正義往往不會獲勝,但我們還是得活下去。我從某個時期開始也經歷了各種艱辛。即使自己再努力,和平的生活也難以實現。人生就是這樣,每個人都會在某個階段平等地遭遇困難。意想不到的事情接踵而來,但我們夫妻卻無法一起度過這場風暴。那根本是不可能的事。那段時期,我想是女兒聽我傾訴煩惱、給我建議,陪我一起走過來的。風暴持續了 12 年才過去,而我只能忍耐著生活。我沒有勇氣和自信帶著兩個女兒和狗回日本,成為單親媽媽獨自工作養家。孩子們已經上中學和小學了,在台灣的學校用中文學習,事到如今也無能為力,人生無法重來。只能繼續向前走。人生中有許多比死亡更痛苦的事,雖然我從小就習慣吃苦,但回想那將近 12 年是如何熬過來的,當時雖然沒有反抗丈夫一直相信他,但現在想想,那時的我真是個可憐的妻子。長期以來,我總是一邊喝酒一邊做飯。果然我身上流著和父親一樣的血,也因此理解了父親。雖然比不上外省人那位年長的已婚女性,但因為我性格忍耐力強,才能勉強活下來吧。最敏感的 13 歲女兒,當這件事終於解決時已經 24 歲了,我想這件事大大改變了她後來的人生觀。這個女兒打電話到對方女人家裡攤牌,連那個女人的軍人丈夫也知道了,我們家長達七年的無聲電話騷擾終於結束。代替不善言辭的母親做了這麼厲害的事來解決問題,我真的非常感謝這個長女,她給了我很大的幫助。

 

 

母が56歳の時から暮らした伊万里の家で私の戸籍上の祖母山口シゲが住んでいた家です。山口の祖母は戦後の農地解放でほとんどの土地を当時の政策により日本政府に没収されてしまいました。その為不在地主の土地は小作人に分け与えることになったからです。この家だけが残りました。私はここには2年程しか暮らしていません 。父が、佐世保の家で亡くなった後に私たちは母の実家の家に引っ越しました田舎なので交通がとても不便でした今は姉が管理しています。小田原梅の木には毎年小さな梅が実って長女と収穫したことがありました。毎年主人と家族4人で夏休みと春の桜の頃にいつも訪れていて子供達は花火をしたり盆踊りに行ったりと懐かしい場所になっているのではないでしょうか。
這是我戶籍上的祖母山口シゲ在母親 56 歲時開始居住的伊万里老家。山口奶奶在戰後農地解放時期,因當時政策導致大部分土地被日本政府沒收。由於不在地主的土地必須分配給佃農,最後只留下這棟房子。我在這裡只住了約兩年,父親在佐世保的家中過世後,我們就搬回母親的娘家。鄉下地方交通非常不便,現在是由姊姊負責管理。小田原的梅樹每年都會結出小梅子,我曾和長女一起採收過。現在每年暑假和櫻花季,我們一家四口都會回來,孩子們在這裡放煙火、參加盂蘭盆舞,這裡已成為充滿回憶的地方了吧。

 

伊万里の実家1986年正月右側に赤い提灯があります刺繍が素敵で2個買って一つを実家に持って行きました。でも後から兄嫁がこれは結婚の時に下げる物だよと教えてくれました。そう言えば主人の大姉が普通の日に日本人から送られたお盆の提灯を飾っていたことがありました。やはり文化の違いでしょう。時には台湾の常識は日本では非常識日本の常識は台湾の非常識になるのです。台湾の人に綺麗なハンカチや傘や時計をプレゼントするのはタブーなのだそうです。
伊萬里的老家 1986 年正月右側有紅色提燈刺繍很漂亮買了兩個一個帶回老家。但後來大嫂告訴我這是結婚時懸掛的東西。這麼說來丈夫的大姐曾在平常日子裡把日本人送的中元節提燈裝飾起來。果然文化差異吧。有時候台灣的常識在日本是忌諱日本的常識在台灣是忌諱。聽說送台灣人漂亮手帕或傘或手錶是禁忌呢。

 

 

 

台北の家の近くの公園です。この頃は公園はほとんどが老人で20人ぐらい朝だけ集まってお喋りをしていました。何でかなと、考えたら日本との違いが、皆大体の日本の老人は、庭に出て花を育てたり草むしりをしたりしていますので、そこが違うのだと思ったのです。
台北家附近的公園。最近公園裡幾乎都是老人家,早上大約有 20 人聚在一起聊天。我在想為什麼會這樣,後來發現跟日本的差別在於,日本的老人家大多會在院子裡種花或除草,這就是不同的地方。

 

1983年頃四人でよく飲茶を食べに行っていました。今は主人と二人で食べに行きますが、お店の方とも40年近いおつきあいです。
1983 年左右我們四個人經常一起去吃飲茶。現在則是和先生兩個人去,和店家也已經有將近 40 年的交情了。

 

 

1989年8月奈良の鹿  1989 年 8 月奈良的鹿

 

  

1990年箱根と日光へ長女14歳次女10歳この頃から長女は私の悩みを聞いてくれる本当に思いやりのある頼もしい娘でした
1990 年箱根與日光之旅 長女 14 歲 次女 10 歲 從這時起 長女開始會傾聽我的煩惱 真是個體貼又可靠的女兒

 

 

日光東照宮の左甚五郎が造ったと言われる眠り猫1990年夏休み私たち家族四人と姉夫婦とで一泊旅行をしました
據傳由日光東照宮左甚五郎所雕刻的睡貓。1990 年暑假,我們一家四口與姊姊夫婦一同進行了兩天一夜的旅行

 

 

1993年4月母と叔母が東京の姉のところに遊びに行ってました
1993 年 4 月母親與阿姨去東京的姊姊家玩

 

 

1993年母と叔母東京で相撲を見に行ったそうです叔母と母は姉の息子(孫)に会うのが楽しみでよく東京に遊びに行っていました。私は母とは相性はよくて大好きでした。亡くなる数年前に又、来世でも親子になりたいねと、私は母と約束しました。叔母は独身だったので甥や姪を可愛がってよくおこずかいをくれる気前のいい人でした。私は主人の母、私の母、それと叔母の死に装束はすべて本人たちが喜ぶであろう着物や草履、服や靴を入れてあげたのです。そして母のお棺には特別に8歳で亡くなった兄の遺影も入れた時、周りからワァーという声が聞こえました。皆もらい泣きしていました。いつもいつも兄の話をして懐かしがっていたので最後は一緒にしてあげたかったのです。兄の遺影を台湾に持ってきた事があったのですが、占いや風水をする人から置いてはいけないと言われ又すぐ実家に持っていきました。うちは男兄弟が無く跡継ぎがいないのでお棺に入れたのです。主人の母の名前に鳳の字があったので黒に金の鳳凰の刺繍がしてある中国服を長女とデパートで見つけお揃いの刺繍の中国の靴を買ってお棺に入れてあげました。主人の父の黒い中国服には5人の娘がプレゼントした純金のボタンが5個付けてあったのを見たことがあったのでお揃いにしてあげました。まだそのころは台湾は土葬でした。何故なのか一族でいつも一番年下の私がすることになるのです。
1993 年時,母親和阿姨曾去東京看相撲比賽。阿姨和母親因為期待見到姐姐的兒子(孫子),所以經常去東京玩。我和母親相處融洽,非常喜歡她。在她去世前幾年,我們還約定好來世也要再做母女。阿姨是單身,對姪子姪女們很疼愛,常常慷慨地給零用錢。我為丈夫的母親、我的母親以及阿姨的壽衣都準備了她們會喜歡的和服、草鞋、衣服和鞋子。而在母親的棺材裡,我還特別放入了 8 歲就過世的哥哥的遺照,當時周圍的人都發出驚嘆聲,大家也都感動落淚。因為母親總是不斷提起哥哥,懷念著他,所以最後我想讓他們在一起。曾經我把哥哥的遺照帶來台灣,但算命和風水師說不能放,所以又馬上帶回老家。由於我家沒有男丁繼承香火,所以就放進了棺材。丈夫的母親名字裡有「鳳」字,所以我和長女在百貨公司找到一件黑色繡金鳳凰的中式衣服,還配了一雙同款刺繡的中式鞋子放進棺材。我曾看過丈夫的父親那件黑色中式衣服上釘著五個女兒送的純金鈕扣,所以也幫他們配成一套。那時候台灣還流行土葬。不知為何,家族中總是由最年輕的我來處理這些事。

  

 

伯母さんの米寿のお祝い伊万里の山平にて 1997年4月私の母は三姉妹でいつも三人を従兄弟のお兄さん夫婦が一緒に車であちらこちらに連れて行ってくれて楽しかったようです。
伯母的米壽慶祝在伊萬里的山平 1997 年 4 月我的母親有三姐妹,總是三個人被堂哥夫婦開車帶著到處去玩,似乎很開心。

 

 

従姉の娘尚子ちゃんの結婚式伯父さん夫婦と叔母と母
表姊的女兒尚子醬的婚禮 伯父夫婦與阿姨和媽媽

 

私の従兄弟とそのお嫁さんや子供たちです私の母と叔母も一緒に写っています。この赤ちゃんたちはもう結婚して子供ができています多分1993年頃だと思います。一番上の従兄(俊輔兄さん)と従姉(邦栄姉さん)夫婦(中山さん)叔母、伯母夫婦と母はもう亡くなりました。左から公典兄さん、忠興兄さん、克則君の奥さん祥子さん、克則君、稔彦君の奥さん浩子さん、喬史兄さんの長女、稔彦君の長男、中山さん、邦栄姉さん、伯母久子、克則君の長男、叔母千枝子、俊輔兄さん、稔彦君の次男、私の母、俊輔兄さんの奥さん喜美代さん、喬史兄さんの次女、喬史兄さんと奥さんの圭子さん、一番右端は忠興兄さんの奥さんの智和子さん。写真を撮っているのは熊本にいる稔彦君だと思います。
這是我的堂兄弟們和他們的妻子、孩子們,我的母親和姑姑也一起入鏡了。這些小寶寶們現在都已經結婚生子了,這張照片大概拍攝於 1993 年左右。最年長的堂哥(俊輔哥哥)和堂姐(邦榮姐姐)夫婦(中山家)、姑姑、伯母夫婦以及我的母親都已經過世了。從左至右分別是:公典哥哥、忠興哥哥、克則君的太太祥子、克則君、稔彥君的太太浩子、喬史哥哥的長女、稔彥君的長子、中山家、邦榮姐姐、伯母久子、克則君的長子、姑姑千枝子、俊輔哥哥、稔彥君的次子、我的母親、俊輔哥哥的太太喜美代、喬史哥哥的次女、喬史哥哥與太太圭子,最右邊則是忠興哥哥的太太智和子。我想拍照的人應該是在熊本的稔彥君。

 

 

叔母は手先が器用でいつも色んな物を手作りしていました叔母は生涯独身でした好きな方がいたそうですが戦死されたそうです
嬸嬸手很巧,總是自己動手做各種東西。嬸嬸終身未嫁,聽說曾有心上人,但在戰爭中陣亡了

 

 

叔母の家の庭のランは大昔私の祖父が植えたらしいです倉庫の近くにはむくろの木があって叔母が倉庫の屋根にむくろの実が落ちる時はとても音がうるさいと言っていたものです昔の人はその皮で洗濯をしていました。私も洗濯をしたことがあって確かに泡が立ちました中の黒い種は羽根突きの羽に付いてる黒い実です。今はもう見ることのないむくろの木65年前のことですが昨日の事のように思い出されます。
嬸嬸家院子裡的蘭花,聽說是許久以前我祖父種下的。倉庫旁邊有棵無患子樹,嬸嬸總說當無患子果實掉在倉庫屋頂時,聲音吵得不得了。古時候的人們用它的果皮來洗衣服,我也曾經拿來洗過,確實會起泡呢。裡頭黑色的種子,就是羽子板球拍上黏著的那種黑色果實。如今已難得一見的無患子樹啊,雖然是六十五年前的往事了,卻彷彿昨日般鮮明地浮現在腦海裡。

 

 

叔母の家の草花ここには無花果の木やビワ、ゆすらうめ、そして大きなぐみの木があってそれを食べるのが楽しみでした。でも、もうここも更地になってしまいました。
姑姑家的花草這裡有無花果樹、枇杷、山櫻桃,還有大大的棗樹,吃它們的果實是我最期待的事。不過現在這塊地也已經被剷平了。

 

1998年7月私47歳チワワのジェリー1歳私がリビングで出かける準備をしていると必ず化粧品のにおいが、好きらしく口紅を舐めるのです。今あの頃を振り返ると辛く長い10年の終わりの夏でした。その後の我が家が穏やかだったはずもなく過ごしましたが、私は犬が大好きなのでジェリーの存在は大きかったと思います。私は人間が嫌いです善人より悪人が多いからです。動物と過ごす日々はとても穏やかで動物は嫌がらせをしませんから。世の中にはソドムとゴモラの街に住むような愚かで淫乱な人間がいるということです。私はとても花が好きで、よく家に飾っています。台湾では蘭の花が安く買えますが、この花だけは買いませんし飾りません。その理由は女の名前が若蘭(ローラン)という名前だからです。
1998 年 7 月 我 47 歲 吉娃娃傑瑞 1 歲 每當我在客廳準備出門時,牠總會湊過來舔我的口紅,似乎特別喜歡化妝品的氣味。如今回想起來,那是漫長艱辛十年歲月的最後一個夏天。雖然之後我們家也稱不上過得安穩,但因為我實在太愛狗了,傑瑞的存在對我意義重大。我討厭人類,畢竟這世間惡人總比善人多。與動物相伴的日子格外平靜,牠們從不會刻意刁難。這世上就是存在著像住在索多瑪與蛾摩拉城裡那般愚昧淫亂的人類。我特別喜歡鮮花,經常在家裡擺設。在台灣雖然能買到便宜的蘭花,但我唯獨不買也不擺這種花。原因是有個女人名字叫若蘭(Lolan)。

 

 

1998年姉と母と私義理の兄の運転で明智平のドライブインに立ち寄りました栃木県の華厳の滝に行く途中母84歳姉54歳私47歳
1998 年,姐姐、媽媽和我,在義兄的開車帶領下,順道去了明智平的休息站。那是在前往栃木縣的華嚴瀑布途中,媽媽 84 歲,姐姐 54 歲,我 47 歲

私は結婚してから初めて一人で日本の姉のところに来ました。今までは家族連れのでしたが娘たちも大学生でしたので家族を残して来ることができたのです。母と姉と私の久しぶりの水入らずです。私の母も姉と私もとても苦労をしましたが、母の三人の孫は皆が博士課程に進みました。姉も私も学歴は要らないと子供の頃は思っていましたが、人生はどうなっていくかわからないものです。私の姉は答辞や送辞を読む人でしたから、大学には行かないと言った時、担任の先生が訪ねておいでになりました。。姉は推薦で入れる長崎の活水女子大学に行きたかったようでしたが、我が家にはお金は無く、父は女は結婚したら家庭に入り夫や子供の世話をするのが幸せだろうと話していたそうです。父の母親は今の活水女子大学(梅が崎高女)の初代の卒業生でした110年以上前の事になります。姉が大学に行っていたら違う男性と出会い人生も違ったでしょう。
《英子的成長記》 結婚後,我第一次獨自一人來到日本的姊姊家。以往都是全家一起出遊,但現在女兒們都上大學了,才能把家人留在台灣過來。這是母親、姊姊和我久違的母女三人時光。我們母女三人都吃過不少苦,但母親的三個孫女全都攻讀到博士學位。小時候,姊姊和我都覺得學歷不重要,但人生真是難以預料。姊姊以前在學校常被選為代表致答詞或送別詞,當她說不想上大學時,班導師還特地來家裡拜訪...姊姊似乎很想去能靠推薦入學的長崎活水女子大學,但我們家實在沒錢,父親總說女孩子結婚後就該相夫教子才是幸福。說來父親的母親正是現今活水女子大學(前身梅崎高等女學校)第一屆畢業生,那已是 110 多年前的事了。如果姊姊當年上了大學,或許會遇見不同的對象,過上完全不同的人生吧。

 

1996年家族旅行で大分の地獄めぐりに主人は絶対に台湾の温泉には私と行きませんからいつも日本の温泉を廻ります。人は限られた人でしょうが、人生をつまずく三つの事、借金、酒、そして女で破滅の方向に進んでいく人がいます。そうゆうことが無く平和で家族が仲良く健康で暮らせる人こそが勝ち組と呼ぶに相応しいでしょう。人生は人の力ではどうすることもできない事が度々起こり挫折と苦悩と失望を繰り返しながら歳を取って行きます。本当にこの世は残酷でもあり、儚く無常です。
1996 年的家族旅行去了大分的地獄巡禮,因為我先生絕對不會帶我去台灣的溫泉,所以我們總是去日本的溫泉。人生中會遇到三件讓人跌倒的事情:借錢、喝酒和女人,有些人會因此走向毀滅。能夠避開這些事,和家人和睦健康地生活的人,才稱得上是人生贏家吧。人生中常常會發生人力無法控制的事情,在不斷經歷挫折、苦惱和失望的過程中逐漸老去。這個世界真的既殘酷又虛幻無常。

 

1985年10月26日桃園の六福の動物園にて、主人39歳私34歳長女9歳次女5歳です。この動物園には次女が生まれたころからちょくちょく来ていました。二人とも動物が大好きでした。この頃が我が家は平和で幸せな時間でほんの短い時代でした。
1985 年 10 月 26 日於桃園六福村野生動物園,當時丈夫 39 歲、我 34 歲、長女 9 歲、次女 5 歲。從次女出生後,我們就經常造訪這座動物園。兩個孩子都特別喜歡動物。那段時光對我們家來說,是既平和又幸福的短暫歲月。

  

 

1988年7月19日主人の大学の事務所の会計室の黄素蘭さんの結婚式に招待されました新婦の素蘭さんと新郎の方です素蘭さんにはあれからお会いしていませんがお子さんは大きくなられたでしょう。この年迄は、まだ大学の方々の結婚式に私を連れて行ってくれていました。これから後の10年は私は大学関係の結婚式には参加させてもらえなくなりました。素蘭さんは事務所の綺麗な三人の中の一人です。
1988 年 7 月 19 日受邀參加主人大學事務所會計室黃素蘭小姐的婚禮,照片中是新娘素蘭小姐與新郎。後來就沒再見過素蘭小姐了,她的孩子應該都長大了吧。直到這年為止,主人還會帶我參加大學同事的婚禮。但往後十年間,我就沒機會再參與大學相關的婚禮了。素蘭小姐是事務所裡三位美女中的其中一位。

 

 

1994年1月28日台湾国立海洋大学海洋工程総合実験館の開幕式です主人48歳赤いジャンバーを着ているのは修士課程と博士課程の学生たち この実験館は主に港湾の水工模型実験をする場所で世界の五本の指に入るスケールだそうです。 今は主人の学生が跡を継いでいます。この日のお昼は基隆の海鮮店で学長、同僚、学生、その他取引先の方々と大学の事務の職員達全員と一緒に16卓190人程で食事をしたそうです
1994 年 1 月 28 日台灣國立海洋大學海洋工程綜合實驗館的開幕式。主人 48 歲,穿著紅色夾克的是碩士班與博士班的學生們。這座實驗館主要是進行港口水工模型實驗的場所,據說是全球規模前五大的設施。現在由主人的學生繼承衣缽。當天中午在基隆海鮮餐廳與校長、同事、學生、其他合作廠商及大學行政人員共 16 桌約 190 人一起用餐。

 

1994年春家族で主人の新しい実験館兼研究室に立ち寄りましたが、まだ外壁が完全には終わっていませんでした。この頃から私は犬の世話が必要でしたから大学の事務所の前にあった古い実験館から引っ越した新しいこの場所は後ろに太平洋が広がって毎日ビクターを連れて何度も散歩に行きました。周りには野良犬もたくさんいてドッグフードの缶詰めを持って行ってあげていました。大学には保護活動をする若者たちもいて子犬の里親を探したり白ちゃんと私が呼んでいた母犬はアメリカの家庭に引き取られて可愛がられている写真を見た時とても嬉しかったです。二姉がこの車のナンバープレートが13だから縁起が悪いから交換したらといわれたのですが、この車を買うとき業者が1300か9000の二つから選んでくださいと連絡があり台湾では9(末永くの意味です)をとても好みますが、日本では嫌いますから1300のほうにしたのです(キリスト教の方はいやでしょう)日本では9は苦しむ苦労すると言うので、やはり文化の違いです。
1994 年春天,我們一家人順道去了丈夫新建的實驗館兼研究室,當時外牆還未完全完工。從那時起,因為需要照顧狗狗,我們就從大學辦公室前的那棟舊實驗館搬到了這個新地方。這裡後面就是遼闊的太平洋,我每天都會帶著維克多出去散步好幾次。周圍還有很多流浪狗,我常常帶著狗罐頭去餵牠們。大學裡也有些年輕人在做動物保護工作,幫忙替小狗找領養家庭。有隻我們叫「小白」的母狗後來被美國家庭收養了,看到牠過得很幸福的照片時,我真的非常開心。二姐曾說這輛車的車牌號碼是 13,不吉利,建議我換掉。其實當初買這輛車時,車商通知我可以在 1300 和 9000 兩個號碼中選擇。在台灣,大家很喜歡數字 9(代表長長久久的意思),但在日本卻很忌諱,所以我選了 1300(基督教徒應該也會不喜歡吧)。在日本,9 被認為是「苦」和「勞苦」的象徵,這果然就是文化差異啊。

 

 

 

 

 

1994年春一月にオープンさせた主人の大型の研究室に日曜日家族で遊びに行った時の写真です。お祝いに送られた樹木や鉢植えには赤いリボンがつけられています。大学の事務所からは遠い所にある為家族で来れるようになりました。。私は44歳の時(実験館オープンの翌年)に長女と二人で教習所に通い運転免許を取得したのですが、あの頃主人から私たち二人に何度も何度も免許を取るようにと言われて娘と二人でしぶしぶ通ったのでしたが、その頃何故か主人の血圧がとても高くなり(ストレスを抱えていた為)この時は基隆まで毎日私の運転で行けたので主人は助かったと思います。そのストレスの原因を私が知ることになったのはそれから4年後でした。主人は仕事や勉強の事では何もストレスを感じる事が無く、とても強気で研究が大好きな人でした。でも私生活ではメンタルが弱く円形脱毛症や顔面麻痺や目の神経が切れる中風に何度もなりました。
1994 年春天一月,丈夫的大型研究室開幕時,我們全家在週日一起去遊玩的照片。祝賀贈送的樹木和盆栽上都繫著紅色緞帶。由於距離大學辦公室很遠,終於能全家一起來了...。我在 44 歲那年(實驗館開幕的隔年)和大女兒兩人一起去駕訓班考取了駕照,那時候丈夫不斷催促我們母女倆去考照,雖然我們心不甘情不願地去上課。當時不知為何丈夫的血壓變得非常高(因為承受著壓力),那時每天都能由我開車載他到基隆,我想這對他來說真是幫了大忙。而那個壓力的真正原因,我是在四年後才知道的。丈夫在工作和學業上從不感到任何壓力,是個非常強勢又熱愛研究的人。但在私生活方面心理承受力卻很弱,曾多次出現圓形禿、顏面神經麻痺,甚至眼中風導致視神經斷裂的情況。

 

1994年1月28日にオープンさせた実験館のパンフレット
1994 年 1 月 28 日開幕的實驗館手冊

 

主人の実験館で八斗子漁港の模型実験やっているところです八斗子は基隆にあります。
在主人的實驗館裡正在進行八斗子漁港的模型實驗,八斗子位於基隆。

 

実験館でビクターと水槽を見ている主人あの頃の事を思うと懐かしく切ない気持ちになります。とても手のかかる犬でしたが複雑な思いです。この犬だけは家で飼ってやれなかったので可哀想な気がします。広い牧場のようなところで飼われたらよかったでしょう。でもここはかなりの広さだったので、中や外を走り回れ自由自在に過ごせたビクターは幸せだったと思います。(この写真は実験館のパンフレットの中に載せていた写真です)
在實驗館看著維克多和水槽的主人,想起那時的事就感到既懷念又心酸。雖然是隻非常費心的狗,但心情很複雜。唯獨這隻狗沒能讓牠在家裡生活,覺得很可憐。要是能在像廣闊牧場那樣的地方飼養就好了。不過這裡的空間也相當寬敞,能在室內外自由奔跑的維克多,我想牠是幸福的。(這張照片是刊登在實驗館手冊裡的照片)

 

 

1999年1月28日主人の実験館の5周年記念パーティーこの日の夜はブラザーホテル(兄弟飯店)14階で11卓132人が集まりました。九州大学の吉田助教授51歳と私の友人の京子さんと玄ちゃんです。台湾で知り合った京子さんは私より10歳若くて38歳、玄ちゃん8歳でした。私はこの日48歳になりました。友人達からあなたは勝ったのだよとか、旦那さんを取り返したんだよとか言われました。これは誉められているのでしょうが、私の心は複雑でした。或る時期をその時間をその人を選んだわけですし、相手も主人もお互いの家庭は捨てたくは無かったにせよ長く続いたわけですから私からすると喜べなかったのです。飼ってた犬が迷子になり戻ってきたらとても嬉しいでしょうが、この件で嬉しいと思ったことはありませんでした。私の知っている友人はほとんど別居か離婚をしていて夫婦というのはそんなものなのでしょう。みんな何の為に結婚するのでしょう。幸せで平和な結婚生活というものは夢幻にすぎません。
1999 年 1 月 28 日 主人的實驗館五週年紀念派對 當晚在兄弟飯店 14 樓席開 11 桌 共 132 人與會。有九州大學的吉田助教授 51 歲 還有我的朋友京子與小玄。在台灣認識的京子比我小 10 歲 當時 38 歲 小玄 8 歲。這天我滿 48 歲了。朋友們對我說「妳贏了喔」、「把老公搶回來了呢」。這雖算是稱讚 但我心情很複雜。畢竟當初選擇那段時光 那個人 而對方與主人也都不想拋棄各自家庭 卻仍持續了這麼久 從我的角度實在開心不起來。養的狗走失後回來會很高興吧 但這件事我從未感到欣喜。我認識的朋友幾乎都分居或離婚了 夫妻大概就是這樣吧。大家到底是為了什麼結婚呢?幸福平和的婚姻生活終究只是幻夢罷了。

1999年1月28日5周年パーティーに参加するため福岡から来て頂いた主人の同僚の吉田助教授です。昼は大学内の空中大学ビルで立食パーティーで私と娘達も参加する事ができました。この方とは主人が留学中に親しくしていました。
這位是從福岡前來參加我們五週年派對的丈夫同事吉田副教授。白天在大學校園內的空中大學大樓舉行了立食派對,我和女兒們也有幸參與其中。丈夫留學期間與這位教授建立了深厚友誼。

 

    

 

1998年5月20日親しくさせて頂いていた年配の方が着付け教室をやりますよと、誘われてご自宅に伺い参加しました。この着物と浴衣はお借りしたものです。私の着物は全て(数は少ないですが)実家に置いていました。この方には主人の母親が亡くなるひと月前にこの方のご主人の病院に入院させて頂きました。そのご縁でお付き合いをするようになりましたが、もうアメリカに移民されて台湾にはいらっしゃいません。着付けの資格を持っておられたので、とても手際よく教えて頂きました。私は浴衣を着る時パンストを脱ぐのを忘れていました。浴衣の時は下駄は素足ではくものですから。私は20歳の頃はよく着物を着ていて母が夏以外は着物でしたから着方は何となくまだ覚えています。
1998 年 5 月 20 日,與我交情甚篤的一位長輩邀請我參加她在家舉辦的和服著裝課程。這件和服與浴衣都是向她借來的。我所有的和服(雖然數量不多)都留在娘家。這位長輩的先生經營的醫院,在我婆婆過世前一個月曾收治她住院。因這段緣分我們開始往來,不過她已移民美國,現在不在台灣了。由於她持有和服著裝師資格,教導時手法非常俐落。我穿浴衣時忘了脫絲襪,其實穿浴衣時下駄是要打赤腳穿的。我 20 歲時常穿和服,因為母親除了夏天外都穿和服,所以穿著方式我大概還記得。

 

 

1995年12月12日環亜ホテル(今は王朝大酒店になっています)の7階で当日親しくさせて頂いていた由美子さんとこの方のサークル仲間のお祝いの席に参加させてもらいました。由美子さんとは短い期間のお付き合いでしたが、外双渓のご自宅に遊びに行ったことがありました。その後家族で博多に移られましたが、病気になられたことを聞き私は娘と二人で、1998年4月6日北九州市の病院にお見舞いにいったことがありました。その後関東のほうに息子さんと病院を移られたとかで、その後はどうされているかわかりません。
1995 年 12 月 12 日,在環亞飯店(現已更名為王朝大酒店)7 樓,我有幸參加了由美子小姐與她社團夥伴們的慶祝聚會。雖然與由美子小姐相處時間不長,但曾去過她位於外雙溪的家中作客。後來得知她舉家遷往博多,卻不幸患病。1998 年 4 月 6 日,我特地帶著女兒前往北九州市的醫院探望。聽說之後她與兒子轉往關東地區的醫院治療,如今便不知近況如何了。

 

1994年12月17日この日は大学の同僚家族や学生家族と友人などを誘ってクリスマスパーティーを開きました。我が家の二人の娘も一緒で61人来来飯店シェラトンホテルで行いました。この頃主人はストレスを抱えていたので、血圧がとても高くなっていました。以前同じマンションに駐在員の奥さんがいて親しくしていましたが4-5年で帰国されました。その方(千都子さん)が、この頃に東京から台北に遊びに来られてお土産の中に私の好きな稲垣潤一のCDが入っていました。覚えていてくれたのだと嬉しかったのを思い出します。
1994 年 12 月 17 日這天,我們邀請了大學同事家屬、學生家屬和朋友們來舉辦聖誕派對。我們家的兩個女兒也一起參加,總共 61 人在來來飯店喜來登酒店舉辦。那時候丈夫因為壓力很大,血壓變得非常高。以前同棟公寓有位駐外人員的太太(千都子小姐),我們關係很好,但她在 4-5 年後回國了。記得那時候她從東京來台北玩,帶來的禮物中有我喜歡的稻垣潤一的 CD。想到她還記得我的喜好,就覺得很開心。

 

1996年ビクターは主人が長女の為に買った犬でした。広い庭がある家で犬を何匹も育てるのが夢でしたが叶わぬ夢に終わりました。この犬を飼う前に公園に捨てられた子犬を私と長女で拾って帰り育てました。でもその犬は病気が重く一年間病院に連れていっていましたが、その後暫くして死んでしまいました。そのことで長女がとても悲しむので、死んだ仔犬が耳が長い犬だったので主人が、学生のお兄さんからビクターを買ったのでした。私は何匹もの野良犬や骨折をして捨てられたボルゾイという種類の犬を病院に連れていったりしていました。幸い里親が見つかったので、よかったのですが、大学の野良犬たちには缶詰めのドッグフードをあげるだけしかできませんでした。私の30代40代はそうやって生きていました。
1996 年,維克多是主人為長女買的狗。原本夢想在擁有寬敞庭院的家中飼養多隻狗狗,但這個夢想終究未能實現。在養這隻狗之前,我和長女曾在公園撿到一隻被遺棄的小狗帶回家飼養。然而那隻小狗病情嚴重,雖然我們帶牠去醫院治療了一年多,最終還是不幸離世。因為長女為此非常傷心,而死去的小狗是隻長耳犬,所以主人特地從學生哥哥那裡買來了維克多。 那些年,我曾多次將流浪狗和一隻因骨折被遺棄的俄羅斯狼犬送往醫院治療。幸運的是後來都找到了領養家庭,算是圓滿解決。但對於大學裡的流浪狗群,我能做的僅僅只是餵食罐裝狗糧。我的三十歲到四十歲人生,就是這樣度過的。

 

1996年ビクター近くの友達がビクターに服を作ってくれましとてもいたずらできりきり舞いになる毎日でした
1996 年,維克多附近的朋友幫維克多做了衣服,每天都調皮得手忙腳亂呢

 

我が家で飼っていた大型ビーグルのビクターですこの犬は多動犬でうちでは無理だったので二姉の庭で一年か二年世話をしてもらいました。
我家養的大型米格魯維克多。這隻狗過動,在家裡實在沒辦法照顧,所以讓二姊在庭院裡照顧了一兩年。

 

その後ビルを建てることになり今はここの一階は日本交流協会(日本の領事館)になっています今は鯉が泳いでいる場所です
後來決定在那裡蓋大樓,現在一樓是日本交流協會(日本的領事館),也就是現在鯉魚游來游去的地方

 

  

1997年クリスマス台北の自宅で主人とチワワのジェリー 壁の右側に掛けている写真は主人の両親の結婚式の写真です。この頃はいつも主人は私の肩を抱いて写真を撮っていました。
1997 年聖誕節在台北的家中與丈夫和吉娃娃傑瑞 牆壁右側掛著的照片是丈夫父母的結婚照。那時候丈夫總會摟著我的肩膀拍照。

 

1997年11月長女21歳のバースデとーチワワのジェリー四か月私と娘たちは犬がいたことで心が安らぎました
1997 年 11 月長女 21 歲生日與吉娃娃傑利四個月 我和女兒們因為有狗狗陪伴而感到心靈安穩

この時のジェリーは魔女の宅急便の黒い猫ジジのようでした。ラッキーが12歳で死んでしまいもう犬は飼わないと思っていたのですが、この犬を見てもう一度飼いたいと思ったのですジェリーは15年我が家の家族でした。
這時的傑瑞就像《魔女宅急便》裡的黑貓吉吉一樣。原本在幸運 12 歲過世後,我以為自己再也不會養狗了,但看到這隻狗狗時,又讓我萌生了再次飼養的念頭。傑瑞在我們家當了 15 年的家人。

2003年1月28日私52歳長女は新婚旅行でラスベガスに行って留守です長女はいつも私を助けてくれありがたかったです。この子は一を聞いて十を知る娘でした。次女はまだ台湾にいてその後日本に留学しました。我が家に陶器が多いのは実家が伊万里で親戚関係は陶器市で有名な有田に住んでいるのでお祝いや引出物などでほとんど母から貰ったりしたものです。二人の娘は同時通訳が出来る子供に育ちましたあの時に私が娘二人と犬を連れて日本に帰り養育費を貰ったとしても私は二人を大学に満足にやれたかどうかわかりません。私の様に高卒で働くのは娘達はきっと望まなかったでしょう。二人には学歴と言う財産を身体につけてやれましたが、その時期に心に深い傷を負わせてしいました。父親の行いとその後の母親の決断で子供の一生は180度違ってきます今はどちらの道が正しかったのだろうと考えてしまいます。私達の家は松山区にあり信義地区とはすぐ隣り合わせで家から歩いて10分のところに女は新北市永和から引っ越して来ていて軍人専用のマンションは軍人は半値以下で、買えるそうです。普通なら台北県に住んでいた人が、台北市内に家を買って引っ越してくる事は高くてできないはずですが、なぜ引っ越してこれたか不思議でしたが、だいぶ後になって絡繰りが解ったのでした。相手の夫は知らずに引っ越したのでしょう。この女の夫の軍人の階級ではここのマンションは階級が高くないと入れないはずです。孫文の別名の逸仙という逸仙新城という名前がついていますからよほど人に頼んで特別に入れてもらって、それほどにしてまで私の主人のいる家の近くにいたかったのでしょう。主人の新しい実験館がオープンしたころですから1994年頃のことになります。そのあたりから主人は顔面麻痺や高血圧になり、いつ私にばれるかとびくびくして女ともその頃から多分昔のように週二回会うことはしなくなったのかもしれません。女の思惑は外れてその4年後頃に二人はとうとう私にその住所がばれて別れることになったのでした。主人も勿論悪いですが、この女も我が家よりもだいぶ年上の娘が、二人いるのに破廉恥でほんとに淫乱な女でした。
2003 年 1 月 28 日 我 52 歲 長女新婚旅行去拉斯維加斯不在家。長女總是幫助我,真的很感激。這孩子是個聞一知十的聰明女兒。次女當時還在台灣,後來去日本留學了。我們家陶瓷器很多,因為我娘家在伊萬里,親戚住在以陶瓷市聞名的有田,所以大多是母親送來的賀禮或回禮。兩個女兒都成長為能擔任同步口譯的孩子。那時就算我帶著兩個女兒和狗回日本領取撫養費,也不知道能否讓她們順利讀完大學。像我這樣高中畢業就工作,女兒們肯定不願意吧。雖然讓她們擁有了學歷這項財富,卻在那段時期讓她們心靈受了重傷。父親的行為和母親後來的決定,會讓孩子的人生產生 180 度的轉變,現在想想也不知道哪條路才是對的。 我們家住在松山區,緊鄰信義區,從家裡步行 10 分鐘的地方有個從新北市永和搬來的女人。聽說軍人專用公寓軍人可以用不到半價購買。照理說原本住在台北縣的人,要買台北市的房子搬過來應該貴得買不起,當初很納悶她怎麼能搬來,後來才明白其中機關。她丈夫應該不知道搬家這件事。以她丈夫的軍階,照理說不能入住這棟公寓。這裡叫逸仙新城,用的是孫文的別名逸仙,想必是特別拜託人才得以入住,竟然費盡心思也要住到我先生家附近。那時大約是 1994 年,正值我先生新開的實驗館開幕。從那時起先生開始出現面癱和高血壓,整天提心吊膽怕被我發現,和那女人見面可能也從原本每週兩次減少了。那女人算盤打錯,約四年後兩人終於因為住址曝光而分手。我先生當然有錯,但這女人明明有兩個比我們家女兒年長許多的孩子,還如此不知廉恥,真是個淫亂的女人。

 

 

最後に飼っていたチワワのジェリー私は動物が好きで特に犬が一番好きです犬は人を裏切りません2012年に15歳で亡くなった時は私も61歳でしたのでもう後15年犬を飼う自信はなかったのでこの犬が最後になりました。1997年から2012年15年我が家に居ました夏は竹のござを敷き冬に絨毯を敷くとジェリーはとても喜んでぴょんぴょん跳ねて嬉しそうでした。それから主人が冬はオイルヒーター(ジャバラのです)を出して座布団と薄いモーフを出してテントのように囲って暖かくさせるのです。この犬が我が家で一番可愛がられました。
最後養的吉娃娃傑瑞,我超愛動物,尤其是狗狗最得我心,因為狗永遠不會背叛主人。2012 年牠 15 歲離開時,我也 61 歲了,算算自己再活 15 年也沒把握,所以傑瑞就成了我養的最後一隻毛孩。從 1997 到 2012 整整 15 年,牠都是我們家的重要成員。夏天鋪竹蓆、冬天換地毯時,傑瑞總會開心得蹦蹦跳跳。後來我先生還會在冬天搬出油汀式暖爐(就是那種折疊式的),配上坐墊和薄毛毯搭成小帳篷,讓牠暖呼呼地窩著。這孩子可是我們全家最寵的寶貝呢。

 

同じ国際結婚をしてその後日本に帰られた洋子さん台北に見えた時の写真で神旺飯店で夕食をしました。この方にもいつも大変お世話になっております大阪のホテルには必ず会いに来てくださいます。こちらで国際結婚をしている人たちのサークルで仲良くなった数人の友人は離婚をして日本に帰国か別居をしています。人生は悲喜こもごもです。
同樣是國際婚姻後回到日本的洋子小姐來台北時的照片,我們在神旺飯店共進晚餐。這位也總是給予我許多照顧,每次來大阪都一定會來飯店見我。在這裡透過國際婚姻者圈認識的幾位好友,有的離婚回日本,有的分居了。人生真是悲喜交織啊。

 

 

ビクターは1998年6月29日にここに二姉の家から返されて主人の実験館の番犬になりました。私はここに台北の家から基隆の大学の研究室に7年間毎日ビクターの世話に主人と通いました2002年7歳頃の写真だと思いますが2005年6月に10歳で亡くなるまで本当に頑張って世話をしました。この犬はイギリスのキツネ狩りの猟犬とは知らずに学生からビーグルと言われて買ったのでしたが、我が家では狭すぎて飼えませんでした。何度も庭のある家が欲しいと思いました。ビクターはカメラが嫌いですぐに走り出してなかなかちゃんとしたのはありません後ろからこっそりと撮りました。お手とお座りは教えていましたが、姉の所ではやらなかったので忘れていて、でもなんとなく覚えていたようで半分手を上げるのです。そのしぐさが可愛かったのが懐かしく思い出されます。この時の車のナンバープレートは婿が教えてくれて陸運局に私と長女と二人で行って100個の番号から選んだのです。毎日100個電光板に番号が出ていて縁起のよい番号を皆が選んでいくのです以前はそんなことは知らなかったのです私たちが知らない世界を婿はよく知っています。この番号はいくらかで買いました。うちのは安かったですが台湾の人は縁起を担ぐ人が、多いので、8888や9999は70万円位するそうです。
維克多於 1998 年 6 月 29 日從二姊家被送回來,成為主人實驗館的看門犬。我每天從台北的家到基隆的大學研究室,與主人一起照顧維克多長達 7 年。這張照片應該是 2002 年他 7 歲左右拍的,直到 2005 年 6 月他 10 歲離世前,我們都盡心盡力地照顧他。當初不知道這是英國獵狐犬,學生說是米格魯就買了,但我們家實在太小養不下。那時常想著要是能有個帶院子的家就好了。維克多很討厭照相機,一看到就會跑開,很難拍到像樣的照片,這張是從後面偷拍的。雖然教過他握手和坐下,但在姊姊家時都沒練習,所以都忘得差不多了,不過他似乎還隱約記得,會半舉起前腳。那個可愛的動作至今想起仍令人懷念。當時的車牌號碼是女婿告訴我們,我和長女兩人特地到監理站從 100 個號碼中挑選的。每天電子看板會顯示 100 組號碼,大家都會選吉祥數字,以前根本不知道有這種事。女婿很懂這些我們不了解的世界。這個號碼花了一些錢買,我們的算便宜,但台灣人很講究吉利數字,聽說像 8888 或 9999 這種號碼要價 70 萬日圓左右呢。

 

1999年6月26日台北リーゼントホテルで行われた鄭学長のお嬢さんの結婚式に出席しました。私の長女の結婚式にも御夫婦で参加されました。とは言っても我が家は大学関係者は誰にも内緒で秘密裏に長女の結婚式をしたのです。そして当日の前の日に5組の夫婦に電話をかけて明日食事会をやりますと、言って来てもらいました。学長、同僚、古い付き合いの学生、友人でちょうど10人それと今も親しくしている学生にカメラマンを頼みました。皆驚いていました。本来ならば喜帖というこれは台湾で配る結婚式の招待状ですが、この11人だけには配りませんでした。この事は私と長女が、主人に出した条件でした。私の姉夫婦や友人、主人の姉や兄たちの家族、婿の家族で約50人とその他の150日人程の人は婿の仲間や仕事の関係者の方々でした。台湾では会社経営をしている人は結婚のお祝い金を受け取りません。みんなではないでしょうが、そうゆう習慣があるようで突然来ていただ頂いた11人には失礼にはならずに済みました。
1999 年 6 月 26 日我參加了在台北麗晶酒店舉行的鄭學長千金婚禮。我長女結婚時他們夫婦也曾出席。不過我們家對所有大學相關人士都保密,秘密舉行了長女婚禮。婚禮前一天才打電話邀請 5 對夫婦,只說是明天要辦餐會請他們過來。來的有學長、同事、老交情的學生和朋友,剛好 10 人,另外還請了至今仍保持聯繫的學生擔任攝影師。大家都嚇了一跳。照理說應該發喜帖(這是台灣婚禮用的請柬),但唯獨這 11 人我們沒發。這是我和長女對丈夫提出的條件。我姊姊夫婦、朋友、丈夫的姊姊哥哥們家族、女婿家族約 50 人,以及其他 150 人左右是女婿的朋友和工作相關人士。在台灣經營公司的人通常不收結婚禮金(雖然不是所有人都這樣),似乎有這樣的習慣,所以臨時邀請這 11 人來也不算失禮。

 

エジプト航空の機内食ですエジプトはいつもパンが多くて何でかなと思うのです。中学生だった頃に博多で見た念願のツタンカーメンをやっと見に行ける日が来てあれから45年の歳月が過ぎていました。高校の修学旅行に行けなかった私でしたが、世界のあちこちを主人が連れていってくれた事は感謝しています。この時私は60間近で、娘も結婚して孫も出来て普通の暮らしをまた送るようになっていました。
《英子的成長日記》 這是埃及航空的機內餐,埃及總是提供很多麵包,我常想這是為什麼呢?中學時在博多看到夢寐以求的圖坦卡門展覽,終於能親眼目睹的日子到來,轉眼已過了 45 年光陰。雖然高中時沒能參加畢業旅行,但很感謝丈夫帶我走遍世界各地。那時我已年近六十,女兒結婚了也有了孫子,又重新過著平凡的生活。

 

エジプトムハンマド、アリーモスク私たちのツアーがエジプトで初日に行ったところです中は絨毯が敷かれていて荘厳なところでした45歳の頃に家族四人でマレーシアを旅をした時に初めてコーランの響きを聴いて意味はわからないですがとても感動したのを又このエジプトでも体験することになりました。コーランのお祈りは歌のようでホントに心に響くものがあります。
《英子的成長記》 埃及穆罕默德·阿里清真寺是我們在埃及首日造訪的地方。內部鋪設著地毯,是個莊嚴肅穆的場所。記得 45 歲那年,我們一家四口在馬來西亞旅行時,初次聆聽可蘭經的誦讀聲,雖然不懂其意卻深受感動。這次在埃及又再次體驗到了。可蘭經的祈禱聲宛如歌曲,真的能直擊心靈深處。

 

 

途中下車した場所にエジプトの女性がロバと子羊を連れていましたので写真を撮らせてもらいました
中途下車的地方,有位埃及婦女牽著驢子和小羊,我請她讓我拍了張照片

 

これからナイル川のクルーズの旅が始まります  尼羅河遊輪之旅即將展開

クルーズ船の中    郵輪之中

私達の写真にはある時期からいつもオーブが出るようになりました。今はもう出なくなりました。その頃私は、よく不思議な体験をしていました。私は兄を知りませんが、亡くなった兄が来たことがあったりして、いつも僧侶の姿なのです。僧侶になっていたら生きられたのでしょう。私の母にとっては残酷なことですが、兄の死はもう生まれた時から決められていたのだと思います。
從某個時期開始,我們的照片裡總是會出現光球。現在已經不會出現了。那時候,我經常經歷一些不可思議的事情。雖然我不認識哥哥,但過世的哥哥有時會來看我,每次都是以僧侶的模樣出現。如果他能成為僧侶的話,或許就能活下來了吧。對母親來說雖然很殘酷,但我想哥哥的死從出生那一刻就已經註定了。

 

ナイル川下りの船の中です毎日タオルで色々な動物をベットメイキングの人が作ってくれます。ラクダかコブラと蠍みたいです2010年12月
在尼羅河順流而下的船上,每天負責鋪床的服務人員都會用毛巾摺出各種動物造型。看起來像是駱駝、眼鏡蛇和蠍子呢。2010 年 12 月

 

ナイル川の西岸に住む人達は素朴で質素な暮らしをしています。どの家も日干しレンガで作ってあって雨が降りませんから天井はないそうでロバや牛を飼っています庭には棗椰子があってこの棗椰子はカイロのホテルで頂きましたがとても美味しいものでした。
住在尼羅河西岸的人們過著純樸簡約的生活。每戶人家都用曬乾的磚塊建造房屋,由於當地不下雨,所以屋頂都是敞開的。他們在院子裡飼養驢子和牛,還種著棗椰樹。這些棗椰果我在開羅的飯店裡嘗過,真的非常美味。

 

ナイル川クルーズ船から見た西側の夕暮れです人を運ぶ舟が通って行きました
從尼羅河遊船上看到的西岸黃昏,載著人的小船緩緩駛過

 

 

ナイル川下り西側の夕暮れ時の美しさはとても感動してまるで影絵のようで飽かず眺めていました。 この光景は3300年前も同じだったはずでしょう美しいこの風景とファラオの時代に思いを馳せるのでした。
尼羅河西岸的黃昏美景令人感動,宛如剪影般讓人百看不厭。這片景色在 3300 年前想必也是如此,讓人不禁遙想這美麗風景與法老時代的風華。

 

ハトシェプスト女王葬祭殿だいぶ以前にここでテロが起きて何人もの日本人の方が亡くなりました
哈特謝普蘇特女王神殿在很久以前曾發生過恐怖攻擊,造成多名日本人不幸喪生

 

明け方から砂漠に移動して靴の中は砂だらけです。  從黎明時分就開始穿越沙漠,鞋子裡滿是沙子。

 

朝日を見ようと言いながら連れて来られた所ですガイドの時間の計算ミスで見れず帰りの車の中で見たのでした
說是帶我來看朝陽的,結果因為導遊時間算錯沒看到,回程的車上才看到的呢

 

途中アラビア人の村で朝ご飯を頂きました。水煙草のパイプもおいてありました。
在阿拉伯人的村莊裡享用了早餐。那裡還擺放著水煙斗。

 

エジプトは暑いところだと思っていましたが結構寒かったです
我原本以為埃及是個很熱的地方,沒想到還挺冷的

 

朝早くの出発だったので私たちは食欲がなくお飲み物だけ頂きました。
因為一大早就出發,我們沒什麼食慾,只喝了點飲料。

8種類位の料理が並んでいたようでした。。皆さんガッツリ食べていました。
餐桌上擺了 8 種不同等級的料理。。大家都吃得很盡興呢。

   

 

馬車に乗ったのはいいのですがチップを上げないといけませんUSの5ドルだったと思いますが少ないと言われて100ギニーをあげました。とても大きな金額だったみたいで市場の中を揺られながら途中この男性は家に寄り奥さんにお金を渡してきたようでしたそれでも又今度は馬に餌代を欲しいみたいな話をしてきました。エジプトはどこでもこんな感じで少々困惑しました。
搭馬車是沒問題,但得給小費。我記得在美國是 5 美元吧,結果對方說太少,我就給了 100 基尼。這似乎是筆很大的數目,馬車在市場裡搖搖晃晃前進時,這位車伕還特地繞回家把錢交給太太。沒想到之後他又開口說要馬匹的飼料錢。埃及到處都是這種情況,實在讓人有些困擾。

 

 

ルクソール  《英子的成長日記》

 

メムノンの巨像  《英子的成長日記》

 

 

 

 

ここはエジプトのどこだったか忘れましたガイドさんの話は聞かずに猫が気になって何か食べさせています
我忘了這裡是埃及的哪個地方,沒在聽導遊講解,只顧著在意貓咪,餵牠吃點東西

 

イシス神殿  伊西斯神殿

今夜は人の姿のタオルです帽子は主人のです  今晚是人形毛巾,帽子是主人的

 

アスワンダム  阿斯旺水壩

 

小舟に乗って何処かに移動しているのですが船頭の人がお土産を売り出しましたが誰も何も買いませんので、なかなか舟から降ろしてくれません私は木彫りのロバを何個か買ってやっと降ろしてくれました。
我搭著小船正往某處移動,船夫開始兜售紀念品,但沒人買任何東西,所以他遲遲不讓我們下船。我買了幾隻木雕驢子後,他才終於放我們下船。

 

ラクダがたくさんお客さんを乗せるために待機しています。エジプトの人達は何故かボールペンを上げると喜ぶみたいで行く先々でボールペンと子供たちにはお菓子をあげました今はコロナのせいで世界中鎖国状態ですラクダ引や馬車やガイドは仕事を無くしているでしょう早く元に戻るといいのですが
駱駝正等待著載運許多遊客。埃及人不知為何似乎很喜歡收到原子筆,所以每到一個地方我們都會給他們原子筆,也會給孩子們糖果。現在因為新冠肺炎的關係,全世界都處於鎖國狀態,駱伕、馬車伕和導遊們應該都失去工作了吧。真希望一切能早日恢復正常。

 

これからヌビア人が住む村に出発ですヌビアの村長さんの家に向かいます
我們即將前往努比亞人居住的村莊,現在要前往努比亞村長的家

 

月の砂漠のはこんな感じでしょうか  《英子的成長日記》

 

取っ手の棒をつかむだけなので不安定で前だけ見て落ちないように握りしめているのがやっとでカメラを写す余裕はありません
光是抓住把手就已經很不穩了,只能緊盯著前方避免摔車,根本沒空拿相機拍照

 

 

私の念願だったエジプトの旅に行ったのは主人が退官する一年前の2010年の12月末でしたラクダは可愛いのですが落とされそうで周りの景色を見る余裕は全くありませんでした。 並んだところを撮ってもらいましたラクダどうしも仲良しです ツアーの人が帰りもラクダに乗るのなら歩いて帰ると言っていましたが、私も同じ気持ちでした。
《英子的成長日記》 我期盼已久的埃及之旅,是在先生退休前一年的 2010 年 12 月底成行的。駱駝雖然可愛,但騎上去差點被摔下來,根本無暇欣賞周圍景色。只勉強拍了張排隊時的合照,駱駝們倒是相處融洽。導遊說回程若還要騎駱駝的話,他寧願走路回去,我當時也深有同感呢。

 

ヌビア人の村長さんの家で休憩させてもらいミントティーとパウンドケーキを頂いてトイレを皆で借りたのですが、水洗トイレだったので驚きました。そこの女の子に台湾から持って来たお菓子をあげたらとても喜んでくれました。いつもお菓子類を持ち歩いているのは、主人が糖尿病で急に血糖値が下がるからです。エジプトは雨が降る事はほとんどないそうです。洗濯物を夜中も外に干してあって大丈夫なのかなと思ったのです。
在努比亞村長家休息時,我們喝了薄荷茶、吃了磅蛋糕,還一起借用了廁所,發現竟然是抽水馬桶讓我相當驚訝。我把從台灣帶來的點心送給當地女孩時,她顯得非常開心。隨身攜帶零食是因為我先生有糖尿病,血糖容易突然降低。聽說埃及幾乎不下雨,看到他們連半夜都把洗好的衣物晾在外面,不禁覺得這樣真的沒問題嗎?

アブシンベル神殿はラムセス二世の石像が並び中の回廊の奥に四体の石像があります。
阿布辛貝神殿排列著拉美西斯二世的石像,迴廊深處則有四尊雕像。

 

一年に二度2月22日と10月22日に朝日の奇跡と呼ばれ中のラムセス二世の石像が朝日に輝いてとても不思議な光景らしいです30分ほどの時間だそうです。アスワンハイダムによって水没する運命だった遺跡がユネスコとスウェーデンのダムの技術者によって1071個のブロックに分割されて高い場所に移築され、今私たちはそのおかげで見ることができるのです。
一年有兩次,分別在 2 月 22 日和 10 月 22 日,會出現被稱為「朝日奇蹟」的景象,拉美西斯二世的石像在朝陽下閃耀,據說是非常不可思議的光景,持續時間約 30 分鐘。原本因為亞斯文高壩建設而面臨淹沒命運的遺址,在聯合國教科文組織和瑞典水壩工程師的協助下,被分割成 1071 塊石塊遷移到高處重建,如今我們才能有幸目睹這一切。

 

この場所は200年前にイタリアのベルツリオーニが砂に埋もれているのを発見したそうです
據說這個地方是 200 年前由義大利的貝爾佐利奧尼在沙土中發現的

 

これはアブシンベル神殿の裏側に回ったところで小神殿ですこの前後の遺跡は私が1968年17歳の時に引っ越しが完了してこの場所に移されたそうです。ここに来た時私はもう60歳でしたが、14歳の時に見に行ったツタンカーメン展がエジプトにまた来て必ず見たいと言う強い思いと主人が連れて来てくれたおかげで叶えられたのでした。
這是阿布辛貝神殿後方的小神殿,據說前後的遺跡是在我 1968 年 17 歲時完成搬遷,被移置到這個位置的。來到這裡時我已經 60 歲了,但多虧了 14 歲時看過的圖坦卡門展覽再次來到埃及,以及丈夫帶我來實現的強烈願望,才得以如願以償。

 

アスワンからカイロに戻る為にエジプトで一番高級と言われる汽車に乗り移動です二人部屋の個室ですが、トイレは共同でステンレスだったのでで慣れませんでした途中駅員さんが私たちが食べなかったパンを道端の子供たちにあげていたので私も台湾からたくさん持ってきたお菓子をあげようとしたのですが私たちのツアーのエジプト人の女のガイドさんに止められました。主人に話すとプライドがあるのだろうといいました。戦後日本も貧しい時代があってアメリカ人の人が、子供には優しくてお菓子やチョコレートをくれるのです。その時の気持ちはこのエジプトの子供たちと同じだと思ったので子供たちにも食べさせてあげたかったのです外の景色を汽車の窓越しに見ながら3300年前にあんなに栄えた国だったのになあーと思いながら眺めていました。
為了從亞斯文返回開羅,我們搭乘了據說是埃及最高級的列車移動。雖然是兩人一間的包廂,但廁所是共用的不鏽鋼材質,讓人有點不習慣。途中看到站務員把我們沒吃的麵包分給路邊的孩子們,我也想把自己從台灣帶來的許多零食分給他們,卻被我們旅行團的埃及女導遊制止了。跟丈夫提起這件事時,他說可能是因為他們有自尊心的關係吧。戰後的日本也曾經有過貧困的時期,當時美國人總是很親切地給孩子們糖果和巧克力。我覺得當時的心情應該和這些埃及孩子們一樣,所以也想讓這些孩子們能吃到零食。透過車窗望著外面的景色,一邊想著這個國家在 3300 年前曾是那麼繁榮啊——就這樣靜靜地眺望著。

 

 

2010年12月末からから2011年1月初めギザのピラミッドにて クフ王、カフラー王、メンカフラー王のお墓らしいです 主人はこの写真をケータイの画面にしています。
2010 年 12 月底到 2011 年 1 月初在吉薩金字塔 據說是胡夫王、卡夫拉王和門卡烏拉王的陵墓 主人把這張照片設成手機桌布了。

 

ピラミッドの前で  在金字塔前

 

ピラミッドの石の上に登っていますこんなにも大きな石をクレーンもない時代にどうやっては運んだのかホントに謎です
我正站在金字塔的石塊上,這麼巨大的石塊在沒有起重機的時代,到底是怎麼搬運的,真是個謎啊

 

カイロのラクダはどれも綺麗に飾られていました私たちが降りる時はラクダが前足を折り曲げてくれますが、まるで滑り台のようで振り落とされないようにしがみついてました。主人が前に乗ったらよかったのです。
開羅的駱駝全都裝飾得漂漂亮亮的,我們要下來的時候,駱駝會彎曲前腿,簡直就像溜滑梯一樣,為了不被甩下來得緊緊抓住才行。要是讓主人騎在前面就好了。

 

カイロのピラミッドは街の中にあってとても以外でした砂漠の真ん中辺りと思っていたからです
開羅的金字塔就在城市裡,這讓我非常意外,因為我原本以為它們應該是在沙漠中央附近

 

ピラミッドとスフィンクスこの近くにピザハットがあってそこからの眺めはとても良いそうですエジプトは面積の95パーセントが砂漠だそうです。
金字塔與獅身人面像這附近有間披薩店,聽說從那看出去的景色非常棒。據說埃及有 95%的面積都是沙漠。

 

スフィンクスだいぶ顔などが崩れていました私たちのツアーが台北に着いた2011年一月初め頃でしたがその次の日エジプトにもアラブの春のクーデターが起こり私たちは難を逃れたと思いました。数日遅れたら出国できなかったでしょう。
《英子的成長記》 當時獅身人面像的臉部已經嚴重損毀,那是我們旅行團抵達台北的 2011 年一月初。就在隔天,埃及也爆發了阿拉伯之春政變,我們算是僥倖逃過一劫。要是再晚個幾天,恐怕就無法離開那個國家了。

 

屈折ピラミッドです余談ですが、こちらの女性がかぶっているスカーフ(ヒジャブ)は皆さん待ち針で止めていてなんか危なくて安全ピンのようなものがないのかなと思ったのでした。ボールペンよりも小さな安全ピンを持ってきてあげたら喜ばれたかもしれません。台湾や日本なら何かいい留める物を作っただろうと思いながら皆さんのヒジャブを眺めるのでした。
《英子的成長日記》 順帶一提,這座曲折金字塔旁,我看到那些女性戴的頭巾(希賈布)都是用大頭針固定的,感覺有點危險,心想難道沒有像安全別針那樣的東西嗎?要是我帶了比原子筆還小的安全別針給她們,她們應該會很開心吧。看著大家的希賈布,我不禁想著要是台灣或日本的話,應該會做出什麼更棒的固定用品吧。

 

階段ピラミッド  階段金字塔

 

 

カイロ博物館ここで昔14歳の時に博多の天神ビルで見たツタンカーメンを45年振りに見ることが出来ました中学生だった頃父母と佐世保から汽車に乗って寒い時でしたが見に行きました。いつか必ずもう一度見たいと思ってました母がツタンカーメンの顔を彫刻してある金色のペンダントを買ってくれました500円だったと記憶しています。母がいつか本物の金のペンダントが買えたらいいねと言いました。(この頃はカメラは持ち込み禁止でした)
《英子的成長日記》 在開羅博物館,時隔 45 年終於再次見到了 14 歲時在博多天神大樓看過的圖坦卡門。那時還是中學生的我,和父母從佐世保搭火車冒著寒風專程去看展。當時就暗自發誓一定要再見一次。母親買了刻有圖坦卡門臉孔的金色吊墜給我,記得要價 500 日圓。她曾說:「等哪天能買到真金的吊墜就好了呢。」(那時候還禁止攜帶相機入場)

 

カイロの飛行場で買ったラクダとロバの置物ですアラビアンナイトの中に出てきそうなラクダですピンクの瓶は砂が入っていて絵が描いてあります。これは長女一家のドバイ土産です。ラクダは財宝をロバは薪と水と食べ物を乗せています。
在開羅機場買的駱駝和驢子擺飾,看起來就像《天方夜譚》裡會出現的駱駝呢。粉紅色的瓶子裡裝著沙子,上面還畫了圖案。這是長女一家從杜拜帶回來的紀念品。駱駝背著財寶,驢子則馱著木柴、水和食物。

 

 

台北からイスタンブールでトランジットしてイタリアに到着しました。ここから一人一個の大きなトランクを引っ張ってクルーズ船に乗り込みます手続きはクレジットカードの登録をして船に出入りする為の首からぶら下げて廻るカードを貰って船に乗り込みます地中海クルーズの二週間の旅の始まりです。
從台北出發,在伊斯坦堡轉機後抵達義大利。接下來要拖著每人一個的大行李箱登上游輪,手續是登記信用卡並領取掛在脖子上用於進出船艙的卡片,然後就能上船了。這趟地中海郵輪的兩週旅程就此展開。

 

 

私たちが2週間過ごす船内の部屋ですベットの上のビニールは、この上にトランクを置いてクローゼットなどの引き出しに衣類などをしまいます主人の下着はクリーニングに出しましたが、私は16セットの下着を用意しましたベットメーキングの人は男の人なのでさすがに下着を干すのは抵抗があります。
我們在船上度過兩週的房間。床鋪上的塑膠布是用來放置行李箱的,而衣櫃抽屜則用來收納衣物等物品。雖然我把先生的內衣送去送洗,但我自己準備了 16 套內衣。因為整理床鋪的是男性工作人員,老實說要晾曬內衣還是有點抗拒呢。

 

 

カーニバル号一日中船に乗って翌日はどこかの港に着いたら朝から観光で夕方に帰って船で食事をするを繰り返していきます。一日中船の中ではのんびりして海を眺めたりきれいな沈みゆく夕陽をぼんやりと眺めたりとても楽しく過ごせます。
搭乘嘉年華號郵輪,整天待在船上,隔天抵達某個港口後,從早上開始觀光,傍晚返回船上用餐,這樣的日子不斷循環。整天在船上悠閒地眺望海景,或是發呆看著美麗的落日餘暉,過得非常愉快。

 

 

2012年夏主人と二人で地中海クルーズの旅に参加しました2週間この船でベニスから出発しクロアチアのドブロブニク、シシリー島、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、モナコを観光してスペインのバルセロナで下船して空路でイスタンブール空港から台北へ戻ります船はアメリカの船でカーニバルブリーズ号13万トンで乗客は2500人ぐらいいたでしょうか二人部屋のベランダ付きのにしました。この船は二度目の航海でこの旅が終わったらアメリカ航路に戻りカリブ海の方を廻るそうです。本来はバルト三国のクルーズを予約して頼んでいたのに旅行会社の人がチケットの予約を忘れていてキャンセルしてこちらのツアーに参加したのです。もう一度クルーズの旅をしたいと主人は言っていましたがコロナになりもう行くチャンスはないでしょう。
2012 年夏天,我和主人一起參加了地中海郵輪之旅。我們在這艘船上度過了兩週,從威尼斯出發,遊覽了克羅埃西亞的杜布羅夫尼克、西西里島、那不勒斯、羅馬、佛羅倫斯、摩納哥,最後在西班牙的巴塞隆納下船,從伊斯坦堡機場搭機返回台北。這艘船是美國的「嘉年華微風號」,重達 13 萬噸,乘客約有 2500 人左右。我們選擇了附有陽台的雙人房。這艘船當時是第二次航行,據說這趟旅程結束後就會返回美國航線,改走加勒比海航線。原本我們預訂的是波羅的海三國的郵輪行程,但旅行社的人忘了訂票,只好取消改參加這個行程。主人還說想再參加一次郵輪旅行,但遇到疫情後,恐怕再也沒機會了。

  

 

ベニスで イカ墨のパスタを初めて食べましたデートするカップルにはお勧めできないですね、お歯黒のようになりました。
在威尼斯第一次吃了墨魚汁義大利麵,不太推薦給約會的情侶呢,整個嘴巴都變得黑黑的。

 

このパスタを食べたお店のオーナーの奥さんは日本人でした
這家店的義大利麵老闆娘是日本人

 

ベニスは古い街並みでとても素敵な街でした。ここで目にした見覚えのある硝子細工のピエロの人形、昔次女が、お誕生日にクラスの女の子が持って来てくれて、いいものだからと、無造作に古い紙に包んであってプレゼントしてくれたのが、ここのベニスの特産品だったのでした。ベニスのものとは知らずに長い間飾っていたのです。台湾で作ったピエロだと思っていてベニスのお店のウインドに200ユーロと書いてあったようで高価な物をくれてたのだなと改めて思います。このピエロをくれた女の子は性格が良さそうな子でした。何人も女の子を見ていますので自ずと優しい子意地が悪い子の違いは直ぐに分かります。
威尼斯是個充滿古老街景的迷人城市。在這裡,我看到了似曾相識的玻璃小丑人偶。當年次女生日時,班上的女同學帶來了這個禮物,還特別用舊紙隨意包裝說「這是好東西呢」。原來這正是威尼斯的特產啊!我們一直不知道這是威尼斯製品,長期擺飾著它。原本還以為是台灣製造的小丑,看到威尼斯店舖櫥窗標價 200 歐元,才驚覺當初收到的是如此貴重的禮物。送這個小丑的女孩看起來性格很好。因為見過許多女孩子,自然能立刻分辨出溫柔的孩子和性格惡劣的孩子。

 

 

カーニバル号の中で一度だけアクセサリーなどのバーゲンセールが行われますが、人がすごくて中には入れませんでした。
在嘉年華號上只舉辦過一次飾品特賣會,但人潮實在太洶湧,根本擠不進去。

 

 

船の中で朝食を食べるレストランです大きな窓から朝日を浴びながら頂きます
在船上享用早餐的餐廳,透過大片窗戶沐浴著晨光用餐

 

 

この朝ごはんのレストランですが、時間外はソフトクリームとピザと飲み物は何時でも好きな時に食べても構いません
這家早餐餐廳在非營業時間,隨時都可以享用霜淇淋、披薩和飲料

 

 

主人は甘党なのでいつもここでソフトクリームを食べました(血糖値高いのですが)
主人是甜食控,所以總是在這裡吃霜淇淋(雖然血糖很高)

 

ベニスのゴンドラの乗り場です  威尼斯貢多拉的乘船處

 

ベニスのゴンドラに乗っていますツアーの人と6人で乗りました降りるときは船頭さんの帽子の中にチップを払います
我正搭乘威尼斯的貢多拉船,和一群觀光客共六人同乘。下船時,我們會將小費放入船夫的帽子裡

 

 

 

6人で乗りましたこの方たちはご夫婦と息子さんとご主人のお母さんです
這輛車載了 6 個人,他們是一對夫婦、兒子以及丈夫的母親

 

 

サンマルコ広場のカフェでお茶とお菓子を注文しました。ここで食べたら、お店のトイレを使わせてもらえますチップはトイレの前で払いました。昔見た旅愁という映画に出てくる所だと思います。Katharine-Hepburnと言う女優さんが、出ていてとても面白いのですが、最後アメリカに帰国して行く彼女の汽車が遠く離れていき間に合わない男性がくちなしの花を見せるラストはとても切ないシーンでした。
在聖馬可廣場的咖啡廳點了茶和點心。在這裡消費的話,就可以使用店裡的洗手間,小費是在洗手間前面支付的。我記得這裡應該是以前看過那部叫《旅愁》的電影中出現過的地方。凱瑟琳·赫本這位女演員演得非常精彩,但最後她返回美國時,火車漸漸駛遠,趕不上的男主角只能拿著梔子花目送她的結局,真是個令人心碎的場景。

 

 

カーニバル号で開かれるドレスコードの日です背広やドレスを着てディナーを頂きます。
今天是嘉年華號舉辦的正式服裝日,大家穿著西裝或禮服享用晚餐。

 

ドレスコードのディナーの日ですみんなタキシードや色んなドレスの人がいてみんな華やいでいました。
今天是正式晚宴的日子,大家都穿著燕尾服或各式禮服,場面非常華麗。

 

 

ドレスコードの日ですこれからディナーでベランダに出て写真を撮ってます。
今天是著裝規範日,現在要去陽台拍晚餐的照片。

 

 

ディナーの席は決まっていて常に同じレストランで同じツアーの方達と食べます毎日メニューが違っていて席についてから選びますこの日はほうれん草のスープを選びました
晚餐的座位是固定的,總是和同一個旅行團的大家在相同的餐廳用餐。每天的菜單都不一樣,入座後才開始選擇。這天我選了菠菜湯

 

 

毎晩メインディッシュを選びます私たちはロブスターとステーキを頼み半分ずつ頂きます毎日コレステロールの嵐でした
每晚選擇主菜時,我們都會點龍蝦和牛排,各分一半來享用。每天都像在經歷膽固醇的風暴

 

 

クロアチアの城壁の上からのの眺めです長女がここのウインブルドンの選手のイバニセビッチのファンでした。可愛らしい街で確かこの場所は魔女の宅急便のモデルになっている所ではなかったかなと記憶しています。
《英子的成長記》 從克羅埃西亞城牆上眺望的景色。長女曾是這裡溫布頓網球選手伊凡尼塞維奇的粉絲。這座可愛的小鎮,我記得沒錯的話,應該是《魔女宅急便》的取景原型地吧。

 

 

今日は帰ったらウサギのタオルが出迎えてくれました
今天回家時,兔兔毛巾出來迎接我了

 

 

イタリアシチリア島のギリシャ劇場跡奥の山はエトナ火山ナポリのベスビオ火山のポンペイ遺跡コースは入っていなかったので、いつかまたと思っていましたが、もう行くのは無理でしょう。
義大利西西里島的希臘劇場遺址後方的山是埃特納火山。那不勒斯的維蘇威火山龐貝遺跡路線當時沒有進去,想著總有一天要再去,但現在已經不可能成行了。

 

何処のお店だったか忘れましたが白い猫が店番をしていたようです
我忘了是哪家店,但好像有隻白貓在顧店呢

 

 

バチカンの前です17年前に主人が仲間や学生と学会で訪れた時、聖堂の中にあるお店でアメジストのピアスを買ってきてくれました。この時は時間が無くてそのお店には入れませんでした。
《英子的成長日記》 在梵蒂岡前面。17 年前,我先生和同事、學生們來參加學術會議時,曾在教堂裡的商店買了一對紫水晶耳環給我。這次因為時間不夠,沒能進去那家店。

 

イタリアのスペイン広場オードリーヘップバーンがソフトクリームを食べたところです。
義大利的西班牙廣場,奧黛麗赫本吃霜淇淋的地方。

 

イタリアの有名な噴水の前です人が多くてコインは投げられませんでした。このトレビの泉にコインを投げると又再びローマを訪れることが出来ると言われています。もう私たちは多分行くことはないのでしょう。
在義大利著名的噴泉前,人潮眾多根本無法投擲硬幣。據說只要將硬幣投入這座特雷維噴泉,就能再次造訪羅馬。但我們大概不會再有機會去了吧。

 

 

これは何を作ったのかよくわかりません  這是什麼東西我完全搞不懂

 

 

同じツアーの方で台中バスを経営されているご家族だそうです。
聽說他們是同一個旅行團的成員,是經營台中巴士的家族。

 

 

モナコは高級なヨットがいっぱい停泊していました  摩納哥停滿了高級的遊艇

 

 

今夜は豚さんが待っていました  今晚豬豬在等著呢

 

 

鳩がすごくたくさんいて自由気ままに生きている感じでした。
鴿子超級多,感覺牠們過著自由自在的生活。

       

 

イタリアフィレンツェ天国の門ですフィレンツェは皮革職人のお店にも行きました。
《英子的成長日記》 這是義大利佛羅倫斯的天堂之門,我們還去了佛羅倫斯的皮匠店。

 

 

ピサの斜塔は中に入れるらしいですが疲れてしまって写真だけ取りました。
聽說比薩斜塔可以進去參觀,但實在太累了,只拍了照片。

 

 

モナコ公国の高台から見た私たちが乗っているクルーズ船です。
從摩納哥公國的高地俯瞰我們搭乘的郵輪。

 

 

スペインのバルセロナガウディの作品だそうです  聽說這是西班牙巴塞隆納高第的作品

 

 

これもガウディの作品ですトカゲかな?  這也是高第的作品,是蜥蜴嗎?

 

 

スペインバルセロナまるで童話のヘンデルとグレーテルのお菓子の家のようです。
西班牙巴塞隆納簡直就像童話故事《糖果屋》中韓賽爾與葛麗特的家一樣。

 

スペインの家グリム童話の中にいるみたいです  《英子的成長日記》 感覺就像置身於西班牙的格林童話小屋裡呢

 

スペインサグラダファミリア  西班牙聖家堂

 

 

二回目のドレスコードの日は10年近く前に娘の結婚式の時に着たチャイナドレスとスーツです。ここにカジノが並んでいて主人の四姉夫婦がとてもカジノが好きで毎週マカオに行って私たちも何度も何度も誘われたのですが、興味が無かったので行きませんでした。この時はもう二人とも亡くなってましたがカジノを見ると思い出します。
第二次的服裝主題日,是將近十年前女兒婚禮時穿的中式旗袍和西裝。這裡排滿了賭場,老公的四姊夫婦非常熱愛賭博,每週都去澳門,也多次邀請我們同行,但因為沒興趣所以都沒去。當時他們兩人都已經過世了,但每當看到賭場就會想起他們。

 

 

船の中には色んなお店がありますここでブルーダイヤの指輪と娘たちにはペンダントを買いました。隣の女性はお店の方でドミニカ共和国から来ているローズさん。ブルーダイヤは以前台湾では一度だけ見たことがありました。ピンクダイヤはたくさん見かけます。
船上有各式各樣的商店,我在這裡買了一枚藍鑽戒指,還給女兒們買了項鍊。旁邊的女士是店員羅絲小姐,她來自多明尼加共和國。藍鑽我以前在台灣只看過一次,粉鑽倒是經常見到。

 

カナダナイアガラの滝です何の鳥でしょう  加拿大尼加拉瀑布,這是什麼鳥呢

 

ナイアガラの滝この後船に乗ります  尼加拉瀑布接下來要搭船囉

 

私はナイアガラは初めてです  我第一次來尼亞加拉

 

主人は40代の時に同僚と学生それに次女と来たことがあります
主人在 40 多歲時曾與同事、學生以及次女一同來過

 

ナイアガラの滝の近くにあるレストランでお昼ご飯を食べてから船に乗ります。
在尼加拉瀑布附近的餐廳吃完午餐後,我們就要搭船了。

これからこの船にレインコートを着て乗ります  接下來要穿著雨衣登上這艘船

 

滝のしぶきでみんなびしょびしょです  大家被瀑布的水花濺得全身濕透

 

瀧はアメリカ側とカナダ側があります夜はライトアップされるのですが主人も私もくたびれて寝てしまい見れませんでした
瀧分為美國側和加拿大側,夜晚會點燈,但我和老公都累得睡著了,沒能看到

 

ナイアガラの滝に虹がかかりました  尼加拉瀑布上掛著一道彩虹

 

 

マリオットホテルですここの上にあがったのですが床が硝子で怖くて下を見れませんでした
在萬豪酒店這裡往上走的時候,地板是玻璃做的,嚇得我不敢往下看

 

カナダとアメリカの中央にあるオンタリオ湖の中に浮かぶ大小の家々です
位於加拿大與美國之間的安大略湖上,漂浮著大大小小的家屋

 

アメリカのお金持ちの夫が妻の為に建てたそうですが建て終わった時には妻は亡くなってしまいその夫はその家にその後来ることはなかったそうです。ここの家ではないと思います。
據說是美國的有錢丈夫為了妻子而建造的,但在完工時妻子已經過世,而那位丈夫之後再也沒有來過這棟房子。我想應該不是這裡的房子。

 

 

カナダ国家図書館  加拿大國家圖書館

 

総督府の芝生で  總督府的草坪上

 

 

ここの町で氷の上で作るメープルシロップのキャンディーを買いました
我在這個小鎮上買了用楓糖漿在冰上製成的糖果

 

世界文化遺産の標識  世界文化遺產的標識

 

馬の水飲み場です  這是馬的飲水處

カナダのケベックで馬車に乗りました  在加拿大的魁北克搭乘了馬車

 

カナダモントリオールのホリデーインホテル  加拿大蒙特婁的假日酒店

 

 

 

 

カナダの紅葉は日本のと少し違っています背が高い木がほとんどです。
加拿大的楓葉跟日本的有些不同,幾乎都是高大的樹木。

カナダからアメリカに入る国境です。ここでバスの中の荷物を検査されました。
這是從加拿大進入美國的邊境。在這裡,巴士內的行李被檢查了。

 

我が家の重たいタンスの扉の引き戸が外れてせっかちな主人は一人で持ち上げ坐骨神経痛で杖を持ってツアーに参加ですここはハーバード大学の中庭でほかの方々は大学の中を見学に行っています。せっかくの旅なのにバカみたいです。
我家那個笨重的衣櫃拉門脫軌了,急性子的老公一個人硬扛,結果搞到坐骨神經痛,現在拄著拐杖參加旅行團。這裡是哈佛大學的中庭,其他團員都去參觀校園了。難得的旅行卻搞得這麼狼狽,真是有夠蠢的。

 

ハーバード大学の中のカフェで休憩です主人は腰が痛くて中を廻れないので孫や娘達にここのトレードマークのあずき色のブルゾンやシャツを買いました。
在哈佛大學裡的咖啡廳休息,主人因為腰痛沒辦法到處逛,所以幫孫子和女兒們買了這裡的招牌紅豆色外套和襯衫。

 

マサチューセッツ工科大学を見学しました  我參觀了麻省理工學院

 

ロブスターを頂きました  收到了龍蝦

ウオール街ですこの場所はニュースでよく出てきますそれとブロードウェイも通りました。
華爾街這個地方經常出現在新聞上,還有百老匯也經過了。

 

船に乗って自由の女神を見ました  我搭船看到了自由女神像

 

キングコングとツーショット写真  金剛與我的雙人合照

 

ニューヨークのエンパイアステートビルの展望台です。映画の中でキングコングが登ったビルでここでぬいぐるみを買いました。この望遠鏡はトムクルーズの映画オブリビオンに出てきてました。
《英子的成長日記》 這裡是紐約帝國大廈的觀景台。就是電影裡金剛爬上去的那棟大樓,我在這裡買了絨毛玩偶。這個望遠鏡曾經出現在湯姆克魯斯主演的電影《遺落戰境》中。

 

エンパイアのビルとロックフェラーのビルも外から見学してタイムズスクエアとセントラルパークは主人の腰が痛いため私達は近くをぶらぶらして過ごしました。
帝國大廈和洛克斐勒大樓我們都只從外觀參觀,由於主人的腰痛,我們就在時代廣場和中央公園附近悠閒地散步度過。

ホワイトハウスとリンカーンの銅像がおいてあるところも腰が痛い主人とバスの中でした
白宮和林肯銅像所在的地方,也是腰痠背痛的老公在巴士裡度過的時光

フィラデルフィアここでも主人は腰が痛くてバスの中です
在費城這裡,主人也是因為腰痛而在公車裡

 

 

伊勢神宮はあいにくの雨でしたが参拝して、と言っても私達は中を見ることは出来ません皇族の方々だけが中に入れる場所です。ここで有名な赤福を頂きました赤いぶんぶく茶釜が光っていました。鳥羽のホテルに泊まりましたが、不思議なことが起きました海の中には真珠貝のいかだが並んでいたのですが、主人とレストランで朝食を食べているその時主人は丁度トイレに行って私だけ海を眺めていると海の中にお坊さんの顔が浮かび上がりました暫くして波が消してしまい一瞬の出来事でした。それと比叡山の根本中堂の前で撮った写真に釈迦の涅槃像と平安時代の女の人と子供であの時代の十二単のような姿の女性で子供は男の子でした。親子だと思いますが二人ともニコニコ笑っていました。それとその時代の服装の男の人が写真の中に撮れていて不思議でした。何のために写ったのでしょうか。今でもたまに思い出します。
雖然伊勢神宮下著不巧的雨,我們還是去參拜了。不過說來我們也無法進入內部,那是只有皇族才能進去的地方。在這裡品嚐了有名的赤福,紅色的文福茶釜閃閃發亮。我們住在鳥羽的飯店時發生了件奇妙的事——海面上排列著養珍珠的竹筏,當我和丈夫在餐廳用早餐時,正好丈夫去洗手間,我獨自望著海面,突然海裡浮現出一位和尚的臉龐,沒多久就被浪花抹去,只是轉瞬間的事。還有在比叡山根本中堂前拍的照片裡,竟出現釋迦涅槃像與平安時代裝扮的女子及孩童,那女子穿著當時十二單衣的裝束,孩子是個男孩。我想應該是對母子,兩人都笑咪咪的。更奇怪的是照片中還拍到了一位穿著那個時代服裝的男子。究竟為何會拍進這些影像呢?至今我偶爾仍會想起這些事。

 

 

奈良斑鳩の法隆寺の枝垂桜が見事に咲いてました聖徳太子622年没、後に親族達の山背大兄王達一族は蘇我入鹿によって滅ぼされました。法隆寺は聖徳太子(厩戸皇子)の怨霊を封じ込める為に建てられたと聞きました。
奈良斑鳩的法隆寺垂枝櫻花盛開得十分壯麗。聖德太子於 622 年逝世,其後親族山背大兄王一族遭蘇我入鹿滅門。相傳法隆寺是為了鎮壓聖德太子(廄戶皇子)的怨靈而興建的。

 

法隆寺五重塔ここの中に珍しい仏像があって観音菩薩だったと思いますいつもは見れないそうですがこの時期見れると聞いたのでここに来たのでした。その像は聖徳太子をモデルにしているような事だと記憶しています。
法隆寺五重塔這裡面有尊稀有的佛像,我記得應該是觀音菩薩。聽說平時看不到,但這個時期能參觀,所以特地過來了。印象中那尊佛像似乎是以聖德太子為原型塑造的。

       

九州の小倉にある河内藤園ですそれは見事な藤園です CNNに選ばれた世界で10位の中に入る花のトンネルだそうです。
位於九州小倉的河內藤園,這裡是一片絕美的藤花園。據說被 CNN 評選為全球前十名的花之隧道。

 

 

CNNで取り上げられてからとても観光客が増え持ち主は困惑している様子です根っこが観光客に踏まれて痛むからです
自從被 CNN 報導後,觀光客大幅增加,主人顯得相當困擾,因為樹根被遊客踩踏會感到疼痛

2015年5月熊本の水前寺公園です。ここには中学生の時に修学旅行で訪れたことがありました。
2015 年 5 月於熊本水前寺公園。這裡是我中學時參加畢業旅行曾造訪過的地方。

水前寺公園の中の茶室で、ここでお茶を頂きながら築山を眺めています。
在水前寺公園內的茶室裡,一邊品茶一邊眺望著假山。

熊本城も何回か来たことがありますが、この後、地震で崩れたのを台湾でニュースで知りました。
我已經來過熊本城好幾次了,後來在台灣看到新聞才知道它因為地震倒塌了。

 

 

富山の旅、立山黒部アルペンルート雪の壁ですロープウェイやトロリーバスなどに乗って来ました。映画黒部の太陽に出てきたダムも見学しました。
富山之旅,來到了立山黑部阿爾卑斯路線的雪牆,搭乘了纜車和無軌電車等交通工具。也參觀了電影《黑部的太陽》中出現的水壩。

     

 

飛騨高山のお店の藤棚がとても綺麗です  飛驒高山的店鋪藤棚非常漂亮

 

 

上高地にやって来ました。主人と私はツアーから離れて河童橋を見ながら喫茶店でお茶を飲んでいました。お土産店で孫の好きな縫いぐるみの河童などをを買いました。
來到了上高地。我和先生脫離了旅行團,一邊看著河童橋一邊在咖啡廳喝茶。還在土產店買了孫子最愛的河童布偶等紀念品。

 

 

南禅寺の中です紅葉が綺麗でここは奥に入った所です。
南禪寺內的紅葉美不勝收,這裡是往裡頭走的地方。

 

福岡2019年春の舞鶴公園  福岡 2019 年春天舞鶴公園

 

主人と長崎を旅した時に眼鏡橋に立ち寄りました。私の父が長崎中学の時の自宅の住所名簿がこの近くで八幡町になっていましたので訪ねてみました96年も前の事です2019年5月
和主人一起到長崎旅行時,順道去了眼鏡橋。因為我父親在長崎中學時的家就在這附近的八幡町,所以特地去看看。那是 96 年前的事了 2019 年 5 月

 

2019年5月長崎に遊びがてら先祖のお墓参りに来ました、ここはいつも来ている大浦天主堂です。父親の実家のお墓は長照寺でかなり上の方に登りますここに大津家と福田家が二つ並んであって私の高祖母(一人娘だったとか叔母から聞いています)の実家が福田家みたいですお墓の敷地に二つの家のお墓は良くないと聞いたことがあったのですが、やはり大津家は世界大恐慌の頃からなのか定かではないのですが没落してしまったのです。父の大津家の兄弟は兄の新太郎、弟光男、歌子、勝子、愛子と父とは20歳年の離れた妹の徳子叔母さんだったと聞かされています。実際に会ったことがあるのは熊本の徳子叔母さんで何枚も油絵を頂きました。愛子叔母さんは一度だけ父が亡くなった後でお会いしたことがあります。父が養子だったこともあり私が親しくしていたのは徳子叔母さんだけでした。
2019 年 5 月,我來到長崎遊玩順便祭拜祖先,這裡是我經常造訪的大浦天主堂。父親老家的墓地在長照寺,需要爬一段相當陡峭的山路。那裡並排著大津家和福田家兩座墓,聽說我的高祖母(從姑姑那裡得知她是獨生女)的娘家似乎是福田家。我曾聽聞在墓地裡並排兩家的墳墓不太好,果然大津家從世界大恐慌時期開始——雖然具體時間不確定——就逐漸沒落了。父親在大津家的兄弟姊妹有哥哥新太郎、弟弟光男、歌子、勝子、愛子,以及比他小 20 歲的妹妹德子姑姑。我實際見過面的只有住在熊本的德子姑姑,她送了我好幾幅油畫。愛子姑姑則是在父親過世後,只見過那麼一次。或許因為父親是養子的關係,和我比較親近的只有德子姑姑。

 

 リンガー邸ですリンガーはリンゲル液(点滴)を作った人だそうです。私のひいおじいさんやおばあちゃんもこの家に頻繁にきていたのでしょう
這裡是林格宅邸。聽說林格就是發明林格氏液(點滴)的人。我的曾祖父和祖母應該也經常來這間屋子吧。

 

グラバー邸はこの時修理中でお休みでした階段を下ると必ずこの場所を通りますお土産を買って帰りました おくんちの時の船だと思いますが、オランダ漫才や龍踊やペーロン競争などの話を父が昔話していました。
格拉斯哥宅邸當時正在維修中暫停開放,走下階梯必定會經過這個地方,我們買了伴手禮帶回家。我想這應該是御九日祭典時的船隻,父親以前常講述關於荷蘭漫才、龍舞以及爬龍船競賽等故事。

 

長崎に来たら必ずこの店に寄ります茶碗蒸しと蒸寿司が有名です
來到長崎一定要造訪這家店,茶碗蒸和蒸壽司都很有名

 

吉宗は歴史が古く父親の先祖たちもここで食べていました玄関には下足番の人がいます
吉宗的歷史悠久,連我父親的祖先們也曾在此謀生,門口還站著負責看管鞋子的僕役

 

この写真は主人と私が2019年5月長崎を旅した時に泊まったANAクラウンホテルの部屋に置いてあったヒストリーオブグラバーガーデン40アニバーサリーの本の中の絵葉書です私がこの中に書いてある人と縁があるものなので譲ってくださいとフロントの方に頼んだら非売品ですが、持って行って構いませんとおっしゃって頂いたものです父親の母方の祖父がリンガー商会に勤めていたので懐かしく思ったからです又いつか訪れてフロントの方にお礼を言いたいと思います。
這張照片是我和先生在 2019 年 5 月造訪長崎時,入住 ANA 皇冠酒店房間內擺放的《格洛弗花園 40 週年紀念冊》中的明信片。因為我覺得書中記載的人物與我有緣分,便向前台人員請求「能否將這個讓給我」,對方表示「雖然是非賣品,但您可以帶走沒關係」。由於我父親的外祖父曾在林格商會工作,看到這些內容讓我感到特別懷念。希望未來有機會能再次造訪,親自向前台人員道謝。

 

 

2016年有田の従兄と奥さん横浜に住む娘さん夫婦が4人で台湾に遊びに来て皆でティンタイフォンで食事をしました。丁度台湾のお正月の時です従兄弟の奥さんの智和子さんは有田の家で会うたびにここの料理が美味しかったと何度も言っていました。私の従兄姉は6人ですがもう3人しか居ません。この3人の従兄弟たちも亡くなった従兄弟たちもとても皆夫婦が仲良くて家庭の中でのトラブルを聞いたことがありません。皆愛妻家なのです。
2016 年,有田的表哥和表嫂,他們住在橫濱的女兒和女婿,四個人一起來台灣玩,我們大家一起去鼎泰豐吃飯。那時正好是台灣的農曆新年。表哥的妻子智和子每次在有田家見面時,都會多次稱讚這裡的料理很好吃。我原本有六個表兄弟姐妹,但現在只剩下三個了。無論是還在世的三位表兄弟,或是已經過世的那些,他們的夫妻感情都很好,從來沒聽說過家裡有什麼糾紛。大家都是愛妻家呢。

 

姫路城に行きましたがお城が何だか真っ白にお化粧をしているみたいになってますね。
去了姬路城,發現城堡整個雪白得像化了妝一樣呢。

 

稚内のANAクラウンホテルの前の稚内駅ですこのレールは日本最北端にあるレールで駅からここに観光客が見れるようにと、この場所に移したそうです。
稚內 ANA 皇冠酒店前的稚內車站。據說這條鐵軌是日本最北端的鐵軌,為了讓遊客能從車站看到這裡,才將它移到此處。

サロマ湖にある鶴雅ホテルでここの食事は私が今迄旅をしたレストランの中で一番美味しいと思いました。ホテルで知り合った親子連れの方もわざわざ旭川からバイキングをお目当てに来るのだそうです。
在佐呂間湖的鶴雅飯店,這裡的餐點是我至今旅行中吃過最美味的。在飯店認識的一對親子遊客也說,他們是特地從旭川過來,就是為了這裡的自助餐。

トナカイ牧場に行きました餌は手からしか食べません草の上に落としても食べないので私の手の上で食べさせていました。
《英子的成長日記》 去了馴鹿牧場,牠們只肯從我手上吃飼料。就算把飼料放在草地上也不吃,所以我只好一直用手捧著餵牠們。

 

クッチャロ湖の売店に九州の方がいてびっくりしました。博多の方でお兄さんが九大卒でアメリカに住んでいらっしゃるそうです。分かっていたなら何かお土産を台湾から持ってきたのにと思いました。
在庫頁湖的賣店遇到九州來的人讓我好驚訝。是博多那邊的人,聽說他哥哥是九州大學畢業,現在住在美國。早知道的話就從台灣帶點伴手禮來了。

 

オシンコシンの滝です。ここはツアーに参加しないとなかなか来れない場所です。
這是奧之細道瀑布。這裡如果不參加旅行團的話,很難有機會前來。

 

日本の最北端の地、宗谷岬にやって来ました。主人は観光と視察で北海道には20回は来てると思います。私も数えきれないぐらい来ています。私の母は若い頃から北海道に住みたいと思っていたそうですその夢は叶えられなかったのですが、北海道は私が子供の頃はすずらんが有名でした最近はあまり見なくなりました台湾からインターネットで母の日にすずらんを母と叔母に毎年送っていました。私が20歳のころに何かのイベントのハガキで北海道のフェリーの旅が当たり母に上げたことがありました。知床丸だったと記憶しています。お金は無かったので東京の晴美埠頭から函館を往復するだけで東京在住の女学校時代の友人の家に泊まったようでした。30代の頃なら母に北海道のツアーのお金などは出してあげられたのにと思いました。
我來到了日本最北端的宗谷岬。主人為了觀光和考察,應該來過北海道 20 次左右。我也數不清來過多少次了。聽說我母親年輕時就想住在北海道,雖然這個夢想沒能實現。在我小時候,鈴蘭在北海道很有名,最近卻不太常見了。我每年都會從台灣透過網路,在母親節時送鈴蘭給母親和阿姨。記得我 20 歲時,曾因某個活動的明信片抽中了北海道渡輪之旅,就把機會讓給了母親。印象中那艘船叫知床丸。因為沒什麼錢,所以只是從東京的晴美碼頭往返函館,當時好像借住在東京女校時代的朋友家。想到如果是在 30 多歲時,就能出錢讓母親參加北海道的旅行團了。

 

2016年夏北海道の島礼文島に来ました。北海道を時計の逆に回りフェリーでここと利尻島も回りました高山植物が色々咲いていて自然がいっぱいでした。
2016 年夏天來到了北海道的禮文島。沿著北海道逆時針方向搭乘渡輪,也造訪了這裡和利尻島,到處盛開著各種高山植物,充滿了大自然的氣息。

太宰府天満宮令和元年(2019)に5月からなりました。丁度その時ここに来て居て令和の旗がお土産店には沢山立っていました。
太宰府天滿宮在令和元年(2019 年)5 月正式啟用。正好那時我來到這裡,看到紀念品店裡插滿了令和旗幟。

令和になってから人が増えた坂本神社で万葉集の中に出てくる梅の木はどこですか?と聞きましたがそれはもうないそうです。1290年前の梅が在るはずはないですよね私たちは知り合った時からこの太宰府には頻繁に来ていました。天平2年730年正月旧暦なので2月頃でしょう、時に(初春の令月にして気淑く風和ぐ梅は鏡前の粉をひらき蘭ははい後の香をくゆらす)大伴旅人(大伴家持の父)がこの太宰府で詠んだ歌から令和になったそうですね。たくさんの歌人の中から選ばれたのは凄いことです。
《英子的成長日記》 在令和時代人潮增多的坂本神社,我詢問了萬葉集中提到的梅樹在哪裡,但聽說已經不存在了。1290 年前的梅樹怎麼可能還在呢?我們從相識時就經常來這太宰府。天平 2 年(730 年)正月,按舊曆應該是 2 月左右吧,當時大伴旅人(大伴家持的父親)在太宰府詠唱的這首和歌:「初春令月,氣淑風和,梅披鏡前粉,蘭薰珮後香」,據說就是令和年號的由來呢。能從眾多歌人的作品中脫穎而出,真是了不起。

 

いつも行く太宰府の梅が枝餅のお店でお抹茶と梅が枝餅を頂きます。太宰府は知り合った頃から私達のデートの場所でした。菅原道真を慕って京都から飛んで来たという飛梅の前でいつも写真を撮っていました。
在常去的太宰府梅枝餅店裡享用抹茶和梅枝餅。太宰府從我們相識以來就是我們的約會地點。我們總是在那株傳說中追隨菅原道真從京都飛來的飛梅前拍照留念。

 

太宰府の近くにある料亭です。水月庵ここでお昼を頂きました。お店の方が佐世保の方だったので意気投合してお話ししました。
位於太宰府附近的料亭。在水月庵享用了午餐。因為店家是佐世保人,相談甚歡。

 

2019年7月京都宇治の平等院鳳凰堂です。幼馴染の龍子ちゃんも一緒に行きました。十円玉の裏に描かれている所です。
2019 年 7 月在京都宇治的平等院鳳凰堂。青梅竹馬的龍子也一起去了。就是十元硬幣背面畫的那個地方。

 

私達は遠くに離れてもいつも連絡しています。  我們即使相隔遙遠也總是保持聯繫。

 

 

京都永観堂紅葉が綺麗ですが人も多いです。2019年11月26-12月4月に大阪と京都を観光してから台湾に帰ったら武漢肺炎が流行りだしてそれから世界中に広がりもう旅はできなきなりました。私の母が生きているときは年に2回家族で里帰りをしていました。
京都永觀堂的紅葉很美,但人也很多。2019 年 11 月 26 日至 12 月 4 日去大阪和京都觀光後回到台灣,武漢肺炎就開始流行,接著蔓延到全世界,再也無法旅行了。我母親還在世時,每年都會全家回鄉兩次。

 

私の古希のお祝いに学生の奥さんが動画を作ってくれましたここを押すと音楽が流れます
學生太太為我的古稀慶祝製作了一段影片 點擊這裡就會播放音樂

 

私の古希のお祝い2021年1月28日ホテルオークラ台北にて
我的古稀慶祝 2021 年 1 月 28 日於台北大倉久和飯店

主人はせっかちで短気な人ですが、私は争いを好みませんだから相性は合うのだと思います。来年は出会って50年になります。主人は私をとても愛してくれて私も主人を愛しましたが、一番充実していた時期にとても私は辛い日々を送りました。人は何処かで間違った道を選びます善と悪なら悪の道に進んでしまうのです。その苦労や辛さに妻が或いは夫が耐えられない人が離婚を選ぶのだと思います。私は主人と人生をもう一度一緒に歩いていく道をその時選んだのです。私はまだ若さが有ったその頃を無駄にしてしまいました。解決した時私は50近くになっていました。選んでいない道は歩いていないのでどうなったのか、その人生の景色はどうゆう結果になったのだろうかと考える事もあります。私は汝の敵を愛せよの言葉よりも目には目を歯には歯をの言葉の方が人間らしいと思います。汝の敵を愛せるのは大いなる神にしか出来ないのではないでしょうか。人生は諸行無常です。長く夫婦をやっていくと言うことは、我慢と努力と忍耐と妥協そして最後に残る物は愛情と思いやりではないでしょうか。平凡に生きる事ほど難しいことはないのではないでしょうか。
《英子的成長記》 我家老爺是個急性子又沒耐性的人,但我向來不愛與人爭執,想來這樣的個性反倒相配。明年就是我們相遇五十週年了。老爺一直很疼我,我也深愛著老爺,但在我人生最該豐盛的年歲裡,卻度過了一段極為煎熬的時光。人總會在某個岔路選錯方向,若面臨善惡抉擇時,往往就這麼踏上了歧途。我想,那些選擇離婚的夫妻,多半是承受不了這份艱辛與痛苦吧。而我當時選擇的,是與老爺重新攜手走完人生這條路。如今想來,那時尚存青春年華的我,終究是虛擲了大好光陰。等到一切塵埃落定時,我已年近五十。有時不免思忖,當初若選了另一條路,不知會看見怎樣的人生風景?與其說「要愛你的敵人」,我倒覺得「以眼還眼,以牙還牙」更符合人性。所謂愛敵如己,恐怕只有至高無上的神才能做到吧。人生本就變幻無常,要維繫長久的婚姻,靠的無非是忍讓、努力、堅持與妥協,而最終留下的,想必就是那份相濡以沫的深情了。說到底,這世上最難的,莫過於平凡度日啊。

学生たちと集まってお祝いをしましたが、あの頃20代だった学生たちも私たちも随分と歳を取りました。私を何としてでも台湾から追い出したかった人にいつも主人の行動やスケジュールの状況等を教えて手伝った人が今は病気になりました。そしてその一番卑劣で卑怯な事をして当時、我が家を崩壊させた人は何かしらの裁きが下るでしょう。もうそうなっているのではないでしょうか、そんな感じがします。私はそのことを30年近く前にこうなるからと結果を、ある老人から聞いていたのです。自分が蒔いた種は自分で刈り取らないといけないのです。私の長所である我慢強さは、ある意味短所でもあります。あの頃、鬱病にもならず長女や台湾に住んでいる日本人の友人以外は味方はいない外国で色んな嫌がらせと戦い30代~40代を過ごしてきて振り返れば精神的に私はとても強かったのでしょう。
和學生們聚在一起慶祝,那時還是 20 多歲的學生們和我們都老了不少。當年那個無論如何都想把我從台灣趕出去的人,總是向我丈夫通報行動和行程來幫忙的傢伙,現在病倒了。而那個用最卑鄙無恥的手段、當年害得我家破人亡的人,應該會遭到某種報應吧。或許已經應驗了,我有這種感覺。將近 30 年前,就有一位老人家告訴過我會有這樣的結果。自己種的因,就得自己承受果。我的優點是忍耐力強,但某種程度上也是缺點。回想起來,在那個除了長女和住在台灣的日本朋友外毫無依靠的異國,經歷各種刁難度過 30 到 40 歲的日子,卻沒有患上憂鬱症,精神上我大概是非常堅強的吧。

 

2021年2月台北の101で食事をしました頂鮮86階(海鮮店の方が開いているお店だそうです)夜景がとても綺麗ですここのトイレの中が喫茶店みたいになっていてそこからの夜景が更に綺麗です私のお気に入りのレストランです。何かのイベントの時に行くようにしています。二階の受け付けから60階までのエレベーターに乗りそこから違うエレベーターに乗り換えて86階に到着です他にもイタリアンや台湾料理のお店もあります。台湾料理の欣葉はやってないそうです。日本から従兄弟やその子供たちが来た時もここに連れてきました。博多にいる従兄弟夫婦はトイレが綺麗だと言って写真を撮っていました。久しぶりに博多の従兄弟の兄から連絡があり去年から初孫の世話でアメリカにいるからと、なぜ奥さんではなく兄が手伝っているのかと言うと英語が得意で、家事もやれるからなのです。孫の世話と犬の散歩をしていると言っていました。楽しくやっているようです。
2021 年 2 月我在台北 101 的頂鮮 86 樓用餐(聽說是由海鮮餐廳經營的店家)夜景非常漂亮。這裡的廁所裝潢得像咖啡廳一樣,從那裡看出去的夜景更是美不勝收,是我最愛的餐廳。我都會特別挑有活動的時候去。要從二樓櫃檯搭電梯到 60 樓,再轉乘另一部電梯才能抵達 86 樓,同樓層還有義式料理和台菜餐廳。不過欣葉台菜好像沒營業了。日本來的表兄弟和他們小孩來玩時,我也帶他們來過這裡。住在博多的表弟夫婦還稱讚廁所很漂亮,一直拍照留念。最近收到久未聯絡的博多表哥消息,他說從去年開始在美國幫忙帶第一個孫子。問他為什麼不是表嫂去幫忙,原來是因為表哥英文好又會做家事。他說現在每天就是照顧孫子和遛狗,看起來過得很開心呢。

     

翡翠の白菜は光緒帝の皇后のお嫁入り道具なのだそうです。それにまねて小さな白菜にあんかけのたれに絡ませて干しエビが載せてありましたやはり日曜日なので博物館もレストランも混雑していました。2021年4月4日故宮博物館の白菜とリーゼントのレストランの白菜
據說翡翠白菜是光緒皇帝皇后的嫁妝。模仿這道菜,將小型白菜淋上勾芡醬汁,再點綴乾蝦仁。果然因為是星期日的關係,博物館和餐廳都人潮擁擠。2021 年 4 月 4 日故宮博物館的白菜與麗莎餐廳的白菜

 

 

2021年4月4日台湾は子供の日になります日曜日でしたが主人が急に故宮博物館に行こうと言い出して急いで出かけました。ここは駐車場が少なくダメもとで行ったら運よく入れて博物館の前にリーゼントの支店のレストランがありますコロナのせいで観光客がいないため土曜日と日曜日しか営業していないのですここで以前から食べてみたかった三種類の品を注文しました。博物館の一番人気の翡翠の白菜と皮がついている豚肉を真似て作った角煮です周りの緑色の野菜は水蓮菜です。これらはここでしか食べれないので今日はラッキーでした。
2021 年 4 月 4 日適逢台灣兒童節,雖然是星期日,但先生突然提議要去故宮博物院,我們便匆忙出發了。這裡停車位很少,抱著碰運氣的心態前往,幸運地停到了車位。博物院前有家麗緻分店的餐廳,因疫情影響沒有觀光客,所以只在週六週日營業。我們點了之前就一直想嘗試的三道菜:博物院最受歡迎的翡翠白菜,以及仿照帶皮豬肉製作的東坡肉,周圍綠色蔬菜則是水蓮菜。這些都是只有在這裡才能品嚐到的料理,今天真是幸運呢。

 

 

多宝閣甘点集という名前の宮廷のお菓子です。寿桃、みかん、黄色いアヒル、角煮の羊羹、白菜、金木犀の香りのゼリー、ピーナッツの粉をかけた餅、白菜の下のは羊羹の様な感じでした計8種類で目で楽しめるお菓子です。
這款名為「多寶閣甘點集」的宮廷點心,包含壽桃、蜜柑、黃色小鴨、東坡肉羊羹、白菜、桂花香凍、花生粉糯米糍等八種精緻甜品。最特別的是白菜造型下層竟暗藏羊羹質地,堪稱視覺系甜點的極致之作。

 

晶華飯店Silks-Palace2021年5月  《英子的成長日記》 晶華飯店 Silks-Palace 2021 年 5 月

鴛鴦の牛肉麺で二つの味が楽しめます。今は75と70の爺さん婆さんになって2人でおしどりの麺を食べているのです。主人と私は実際はとても仲がいい夫婦に入ると思っていましたが、人生とは人間とは男と女とは夫婦は何の為に共に歩んでいくのでしょうか?これから先の世も永遠に答えは出ないのでしょう。一部の男と女には一夫一婦制は難しいのでしょう。この世で一番愛してくれた人が、一番この世で傷つける事ををするのが、夫婦です。でも別れない限り生活を共にしていかないといけないのです。色んな夫婦が、自問自答しながら生きていくのでしょうし、私は老後を迎え自分の人生の学びは何だったのだろう何のために生まれて来たのだろうと考える次第です。
鴛鴦牛肉麵讓你能一次品嚐兩種風味。如今已 75 歲和 70 歲的老夫老妻,依然相伴享用這道鴛鴦麵。我原以為自己和丈夫算是感情相當融洽的夫妻,但人生啊、人性啊、男女之間、夫妻究竟為何要攜手同行?這個問題恐怕永遠找不到答案。對某些男女而言,一夫一妻制或許真的太難。世上最愛你的人,往往也是傷你最深的人,這就是夫妻。但只要不離婚,就得繼續共同生活。每對夫妻都在不斷自問自答中過日子,而我也步入晚年,開始思索這輩子究竟學到了什麼、為何來到這世上。

 

 

元の時代の水墨画で黄公望作の富春山居図  元代水墨畫家黃公望所繪的《富春山居圖》

ミルクをかけると風景が浮かび上がります墨戯仙草という名前のデザートです
淋上牛奶後,風景便浮現出來,這道甜點名為「墨戯仙草」

 

 

 

故宮博物館の中にある子爵、爵というのは入れ物の意味らしく日本人が知っている公、候、伯、子、男の子爵の意味ではないそうです。
在故宮博物館裡提到的子爵,據說「爵」這個字指的是容器的意思,並非我們日本人所熟知的公、侯、伯、子、男五等爵位中的子爵含義。

 

仕女豆沙包で唐の時代宮廷につかえる女性の顔をかたどった小豆のあんが入ったお饅頭です。
仕女豆沙包是將唐代宮廷仕女的臉龐造型融入紅豆餡中的饅頭。

 

翡翠の白菜は私が23歳の結婚の時に初めて見ました。光緒帝のお妃のお嫁入りの品だそうですが、人は亡くなってもこの様に主の元を離れいつまでも残るものなのですね。(赤い色のは白菜を支えるための台でその下は植木鉢です)2021年5月
《英子的成長日記》 那顆翡翠白菜是我 23 歲結婚時第一次見到的。據說是光緒帝妃子的嫁妝,人雖已逝,這樣珍貴的東西卻能離開主人身邊,永遠留存下來呢。(紅色的部分是支撐白菜的底座,下面則是花盆)2021 年 5 月