


その考えが思い浮かんだ瞬間、どうかしていると自分の顔面を思い切り殴りつけそうになった。
しかしそれは時間が経てば経つ程になかなか妙案なのではないかと思えてきて、亜双義はとうとう大学の最寄り駅の目の前にある本屋に足を踏み入れた。
その日の晩、亜双義はバンジークス邸を訪れていた。自分のアパートと比較すると横にも縦にも何倍もの広さがあるものだから、初めは落ち着かない気持ちばかりであったが、何度も通ったことで近頃やっと馴染んできたように思う。我がもの顔で合鍵を使えるようになったことは、特に大きな進歩と言えるだろう。
気に入りの店でテイクアウトした惣菜を互いに持ち寄り、ささやかなディナーを楽しんだその後のこと。アフターディナーティーを飲み終えたバンジークスは、ソファでゆったりと寛ぎながらワインボトルに手を伸ばそうとしている。亜双義はそばへつかつかと歩み寄る。そして彼の正面にでんと仁王立ちすると、男の鼻先に帰りに買った本を突き付けた。彼の眉間の皺が更に深くなったが、至極想像した通りの反応である。
「……これは?」
自分が受け取らねば永遠にこのままだろうと悟っているバンジークスは、渋々といった様子で本を受け取り一瞥すると、表紙を伏せるようにしてテーブルに置いた。
「ポリネシアンセックスのハウトゥー本だ。表紙に書いてあるだろう。字が読めなくなったか?」
バンジークスはそれ以上は聞きたくないというようにこちらに向かって片手を上げてワインをドボドボと注ぐと、無言でグラスを傾けた。亜双義は彼の右隣にドカッと腰を下ろし、足を組んで彼がひと口飲んだ後のグラスを拝借することにした。口に含めば果実の濃厚な風味が舌の上に広がった。
必要以上に尊大な態度をとっているのも、普段なら絶対断られるだろうお願いを申し入れているのも、訳があっての事である。優位に立てる道理がこちらにはあるのだから。澄ました態度をとっていられるのも今のうちだ。
──数ヶ月前、どこか旅行に行きたいと申し出たのは亜双義だ。これから本腰を入れて司法試験に向けての勉強に励まねばならないし、合格したら合格したでその先には司法修習がある。就職してしまえば言わずもがな。自分の性格からして、中途半端な事はできないししたくもないので、一人前になるまではがむしゃらに突っ走るだろう。そうなると、ふたりきりの時間をたっぷり取れるのは何年も先の事となる。
どんなに互いが愛し合っていたとしても、離れて生きてしまえば、たとえ気持ちや想いが変わらなくとも、彼に向き合う時間というのは確実に減っていくだろう。悲しいかな、人間とはそういうものなのだ。だからこそ、その前にささやかな思い出を作りたいというのは、年頃の若者らしい実にいじらしくて可愛らしい願いではないか。
サマーバケーションを利用して十日程休暇を取れば、ある程度の望みは叶う。例えば、北海道縦断グルメツアーもできるし、沖縄離島にのんびりステイするのもいい。五島列島でサイクリングやシュノーケリングを楽しむのはどうだろうか。もしくは思い切って海外か。いつパスポートを取りに行こうかとウキウキしている所に想定外の問題が発生した。
バンジークスは長年勤めていた検察官の職を数年前に辞していた。その腕を買われて、現在はとある企業のインハウスローヤーとして悠々自適に働いている。転勤の心配もなくなったし在宅で仕事をしている事も多く、亜双義にとっても良いことずくめであった。
ところが知り合いに頼まれたとか何とかで、元検事のコメンテーターとしてワイドショーに出演してしまった事で、穏やかだった環境は一変した。
出演自体は短時間であったものの、映像を見た視聴者からの反響は想像を超えるものであったようだ。それは良い意味で(当然だ)。壮齢の容姿端麗な元検事の動画は瞬く間に拡散され、大衆は彼の素性を詳しく知りたがった。しかし彼はSNSの類は一切やっておらず検索しても出てくる事と言えばこれまで関わった事件の記事くらいで、プライベートな情報は露出しなかった。麗しい外見に加え、そのミステリアスさが存在の神格化をますます加速させたようであった。SNSに興味がない亜双義は、大学で友人の成歩堂からスマホを見せられてこの騒ぎを知った。
現代の時間の流れは恐ろしく速く、彼に関するSNS上での騒ぎは数日ほどで鎮火した。ところが、的確な意見と品がみなぎるもの腰をマスコミ側が大層お気に召したようで、あれ以来犯罪に関する見解を求められたり、映像の監修などの仕事が激的に増えてしまったのだ。元来目立つことを好むわけではない彼は、安易にメディアに出たことは反省しているらしい。しかし捜査の役に立てるのであればと、それ以降は顔を出さないという契約はしつつ、書面上での協力であれば惜しみなく引き受けることにしたようだ。
亜双義はバンジークスの実力が世間から正しく評価されるのも、彼の才能が犯罪の抑止力になり得るのも自分の事のように誇らしかった。本人が望むのであればやるべきだと思う。彼の決断に文句などあろうはずもない。
そのせいで、取れるはずであった十日間の休暇が四日間に減ってしまうという悲劇さえ起こらなければ。オレはその知り合いとやらを一生許さない。
しかし顔も知らない人間をいつまで恨んでみたところで減ってしまった休暇が増える訳でもないし、バンジークスを責め立てるつもりなど毛頭ない。過ぎてしまったことをクヨクヨ思い悩む時間ほど不毛なものはないと思う。切り替えの早い亜双義は、次なる手を打つことにした。
まず、移動に長時間を割くなど言語道断。人混みで身動きのとれないような観光地も論外。より近郊にあって、心身ともにリラックスできてリフレッシュできて、未来永劫忘れられないような素晴らしい体験ができる場所……
「という訳で、ここを予約した」
亜双義は、もう文章を丸暗記する程何度も繰り返し見ているページを開いたスマホをバンジークスに向かって提示した。彼は身を寄せて覗き込むようにしながら、興味津々といった様子で人差し指で画面をスクロールしている。
都心のウォーターフロントに位置するその外資系ホテルは、この家からであれば車で四十分足らずで行くことができるし、宿泊者専用のフィットネスもスパも完備されている。四日間過ごすには充分過ぎる施設が整っていた。その上スイートルームであればなんと、ジェットバスの露天風呂まで付いているという(勿論、十室しかないスイートルームは確保済みである)。
亜双義の常識からは桁外れの値段設定に目を剥いたものの、元よりふたりで長期の旅行に行くつもりで貯めていた家庭教師のアルバイト代で十分に事足りるものであった。
リラックスした様子で亜双義の肩に頬を乗せて、のんきに画面を見つめていたバンジークスの指がぴたりと止まる。どうかしたのかと斜め下を見下ろせば、密なまつ毛がふるりと揺れて、彼の目線は亜双義の手元からリビングテーブルへと移ったようであった。伏せた本にそろそろと視線を向けた様子を見るに、こちらの意図を完全に理解したようである。さすが優秀な元検事様は察しが良くて非常に助かる。
思い付いた当初は、盛りのついた中高生でもあるまいし、流石にないな……と考えを打ち消そうとしたものの、短い期間で、今後一生忘れられないような素晴らしい体験、となればこれしかないだろうとまで今の亜双義は思っている。本に書いてあることを読み解くに、このポリネシアンセックスなるものは盛りのついた中高生どころか、理性ある大人にこそ相応しい重要な行為だということが分かった。なにせ、射精を目的としないパートナーとの心の交わりに重きを置いたセックスのスタイルらしいのだから。実に今回の旅の目的にピッタリではないか!
「しっかり読んでおけよ」
なにしろあと二週間しかないのだ。言いたいことがあるらしいが自分が有責であると分かっているバンジークスは、不服そうな顔をしてちいさく唇を噛んでいる。
威丈高な態度に出てみたものの、もし本当に不満なのであればこちらも強行するつもりはない。こう見えて相手が嫌がることを無理矢理強要したり、痛めつけて興奮できるような趣味などはあいにく持ち合わせてはいない。自分たちには異議を唱えることができるだけの信頼関係はあるはずなのだ。
それに、彼だって身をもって分かっているはずである。悪いようにはされないということを。だから、無下に断ることも、安易に頷くこともできないのだということも、もちろん、分かっている。
表情を見せないよう俯いたまま「わかった」と言うバンジークスの声を聞いた亜双義は、どう頑張っても吊り上がってしまう唇を顔を背けて隠すことにした。
十四時になる十分前に、待ち合わせのコンビニの駐車場に入ってきたバンジークスを見た亜双義は、これまで何万回と思ったことを改めてまた思う。なんてかっこいいんだ……!
ホワイトカラーの国産車から、まさしく〝颯爽〟と形容するほかない身のこなしで降り立った彼は、サングラスを外して「待たせただろうか」と心配げに言った。何食わぬ顔で「オレも今来たところだ」とは言ってみたものの、起床してからいても立ってもいられず、近所だというのに三十分前に到着していたことは気恥しいので黙っておくこととする。
目が覚めるような真っ白なシャツと、くるぶしが見え隠れする程の丈のチェックのテーパードパンツ姿は、まるで水面に反射してキラキラと輝く南国の太陽のように目映くて、亜双義は目が眩んでしまった。
バンジークスが肩にかけているバックパックを預かろうとしてくるのを断り(下着とTシャツ三枚と文庫本二冊しか入っていないので重くも何ともない)、代わりについ先程コンビニで買ったファストコーヒーを手渡す。助手席に腰を下ろせば、心地よく冷えた車内のカップホルダーには既に二人分のコーヒー(どこかの喫茶店からテイクアウトしたものだった)が用意してあったので笑ってしまった。
静かに流れているラジオの音をBGMにして小さな話を編むように会話を交わし、二人で四人分のコーヒーを飲みながら目的地へと車を走らせる。
景色を見るフリをして、亜双義は助手席から遠慮なく運転中のバンジークスを眺めることができた。
七分丈の袖から伸びる、ほどよく筋肉が付いた前腕は自分よりひと回りは太くあくまで男性的で、浮き出た血管がセクシーである。サングラスを乗せた鼻筋は上品なラインを描きつつ、鼻先は完璧な角度でツンと尖っている。上向きの薄い上唇は形良く艶やかで、柔和に輝く紫陽花色の瞳が時折こちらをやさしい眼差しで見つめるのもたまらない。う〜ん、やはりかっこいい! この男を四日間も独り占めできるだなんて!
穴があいてしまいそうなくらい見つめ過ぎたか、「私の顔になにか?」と問われてしまったが「前を見て運転しろ」と憎まれ口を叩いてやり過ごす。怪訝な表情で自分の顔面をペタペタと触っている彼を見ながら、亜双義は喜びをしみじみと噛み締めている。
駐車場で車を降りるなり、到着を待ち構えていたベルアテンダントに恭しい出迎えを受けた。面食らってしまった亜双義に代わって、そういった扱いに慣れているらしいバンジークスが堂々たる立ち振る舞いで応対を行う。こちらが恥をかかないように気を配りつつ不自然に見えぬよう先導してくれる彼の姿を見ていると、尊敬の念を抱くと同時に、どうしたって経験の差を感じられずにはいられなかった。
ベルアテンダントの案内により辿り着いた十四階の客室の扉をカードキーで開くと、そこはまさしく楽園だった。
ゆうに八十平米はあるであろう贅沢な空間は天井が高く、大きなガラス窓から明るい日差しがたっぷりと注ぎ込んでいる。真っ白な壁全面に設えられている窓からは東京湾をパノラマビューで望むことができ、まるでこの部屋が天空に浮かんでいるような錯覚に陥った。誰からも干渉されない、ふたりだけの楽園。
静かな音を立てて扉が閉まった瞬間、亜双義の脳裡に瞬発的な衝動がよぎる。
隣にいるバンジークスの身体をベッドに突き飛ばし、めちゃくちゃに唇を吸ってやりたい。そうしてやったらこの男はどんな顔をするのだろう……きっと最初は嫌がる素振りをするかもしれないが、結局は大人しく身を委ねてくれる。いつもそうだ。そのまま首筋に顔を埋めて服を剥いで、欲望に身を任せてしまえたら、どんなに気持ちがいいことだろう……いやそんなことをしたら今回の旅の趣旨が根本からおかしくなるではないか! それではせめて壁際に押し付けて軽くキスするくらい……いやいや、自分を抑えろ冷静になれ!
内なる自分の声と葛藤すること数秒。亜双義は腕を組んで目を閉じて深呼吸を繰り返す。テーブルに用意してあったよく冷えたウェルカムフルーツの中から葡萄を一粒摘んで口に入れると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。
そんなこちらの苦悩も知らず、のんきな男はバルコニーに出て優雅にオーシャンビューを眺めている。その光景はそのまま雑誌のピンナップになってもいいくらい、恐ろしく絵になっていた。海風になびく髪の毛のひと房すら完璧に見えた。亜双義はバンジークスの背後に歩み寄って肩にぽんと手を置く。
「四日間よろしく頼む」
未だくすぶる衝動を堪えて右手を差し出すと、何がおかしいのかクスッと微笑んだ彼は「こちらこそ」と言って手を握り返した。
振り返った瞬間、拍子抜けというような表情をしていたような気がしなくもなくはないのだが、仕方がない。オレも我慢するんだからキサマも我慢しろ!
押さえ付けている欲望が体内で食欲へと転化したのか、分厚い肉を思い切り噛みちぎりたくなった亜双義は、夕食にホテル内にある鉄板焼きをリクエストした。
シェフによって目の前で焼かれる様々な食材を口へと運びながら、バンジークスはペアリングしてもらったワインをもっと飲みたがっていたが、この後のことを考慮して二杯で止めたようであった。亜双義も注文したコースだけでは物足りず、更に肉の塊を追加で頼もうかとも考えたが、隣の彼がそんな調子だったので腹六分目で我慢することにした。
──夕食前、二人は二十階にあるラウンジに赴いた。このラウンジはスイートルームの宿泊者専用らしく、屋外テラスというなんとも贅沢な造りになっていた。
そこで潮風を感じ紅茶を飲んでふたりきりのバカンスの幕開けをのんびり祝いながら、ここで過ごす際のルールをいくつか決めた。
基本的には各々自由に過ごして構わないが、食事は一緒に摂ること。夜は一緒に過ごすこと。スマホの電源はオフにすること。それから、恐らく彼が気になっているであろうことも。
「夜のことについてだが」
自分たちの声が聞こえる範囲に他の宿泊客の姿は見えないものの亜双義が声を潜めて言うと、バンジークスが身構えたのが分かった。
「本では五日間かけて行うとあったが、オレたちは四日間で行う必要がある」
本人に確認はしていないが、亜双義には彼が言いつけを守って本を完璧に読み終えているという確信があった。律儀な男なのだということは十分知っている。
「一日目の、裸で相手に触れずに会話をするという項目は抜きにしよう」
本には〝会話やアイコンタクトを通じて親密さを高める〟と書いてあったが、二日目の〝軽いキスやスキンシップを行う〟と同時にしても問題ないだろうと思う。
「だから今夜は、服を脱いで軽いキスやスキンシップを行いながら会話をするということでどうだろう」
判例を読み上げるような真面目な声で言ってからチラリと見遣れば、案の定バンジークスは気まずそうな顔をしていて、すいと目線を外したのち控えめに頷いた。
断られないことを知っているのにこうしてわざわざ確認するだなんて、我ながら意地が悪いことをしていると思う。それでもそうせずに居られないのは、きっとこの状況に相当浮かれているに違いない。
父の友人だった彼に思いを抱くようになって十年。必死の思いで口説き落としてから、もう二年が経つ。普段自分たちの間には確認せずとも許されている領域があって、ただの知人からパートナーになってからその領域は日に日に範囲を広げている。しかし本人の同意を得ることで、更に彼の心の深い部分まで潜り込めるだろうと感じるのは、恐らく自分の気のせいではないだろうと亜双義は思っている。
ゆっくりと時間をかけて丁寧に夕食を摂った為、部屋にもどると既に二十二時を過ぎていた。ふたりで過ごす夜は長いようでとても短い。
シャワーを浴びた後、亜双義とバンジークスは明かりを落とした部屋のベッドの真ん中で向かい合って座っている。
さすがスイートルームのベッドともなると、これまで見たことないくらい広々としたものであった。この上でならどんなアクロバティックなことだってできそうであったが、今夜自分たちは何もせず軽いスキンシップのみでただ寝るだけなのである。最終日までシーツが乱れることはきっとないだろう。
亜双義が着ているバスローブを脱ぐと、バンジークスも自ら腰紐に指先を伸ばした。ゆっくりと紐を解く。布地がはらりと肩から落ちると、彼の肌が闇の中に白くぼんやりと浮かび上がった。窓ガラスの外に見える夜景が彼の肌に宝石のように反射して、とても綺麗だった。身体を抱き寄せて肌と肌を合わせる。自分と彼の肌からは、同じ匂いがしている。部屋は嘘みたいに静かだった。
下着も全て脱ぎ去って、シーツの上に身体を倒す。どちらが上にも下にもなることなく、ただ隣に並んで互いの顔を見つめ合った。言葉を交わすのが憚られるほど、ふたりの間にはなんの色もついていない透明な空気が流れていた。
彼に向かって腕を伸ばす。輪郭を確かめるように手のひらで頬を包むと、彼は静かに瞼を下ろして、そしてゆっくりと開いた。艶やかに濡れた瞳がこちらを真っ直ぐ見つめる。遊色効果のような神秘的な色合いで揺らめく瞳は今、亜双義だけを映している。堪らなくなって、込み上げる気持ちを押し隠すように彼の胸に顔を埋めた。
彼の匂いに包まれながら目を閉じて荒くなってしまいそうな呼吸を整えていると、じわじわと腹が立ってきた。好きなひととベッドにいるのに何もできないだなんて、こんな理不尽なことが許されるのか? この肌に触れることも、身体の奥を自分の好きなように暴くことだってほとんど無制限に許されているはずなのに、なんなのだこの仕打ちは! どこのどいつが言い出したのだ! この苦しみはきっと自分以外の誰にも分からないのだろう。
亜双義の心の平穏は、暴力的な肉慾に引き摺られようとしていた。それでもギリギリ耐えられているのは、自分で言い出した事も守れないようなそんな情けない男だと思われたくないという矜恃、ただそれだけだ。
心の裡でそんな攻防を繰り広げていると、亜双義の背中に腕を回し頭の上に頬を乗せて大人しくしていたバンジークスが口を開いた。
「……キスをするのも駄目なのか」
彼は小さくそう言いながら、亜双義の後頭部の髪の毛を摘んで指先で毛先をいじいじといじくるではないか。心臓がキュッと縮む思いがした。可愛いことを言ってくれるな、頼むから。
「……舌を入れなければ」
奥歯を噛み締め必死の思いでそう伝えれば、身体を離した彼の手が顎に添えられて、くいと持ち上げられたと思った次の瞬間、唇が重ねられた。
「っ…………」
ちゅ…と控えめな音を立てて唇同士が離れてしまって、でもそんなんじゃ全然足らなくて、亜双義はバンジークスの後頭部をぐいっと引き寄せてぶつけるようにして再び口付けた。
「ン、は……」
「………っん……」
自分たちはもっと官能的なキスを知っている。絡め合わせた箇所からとろけそうになるくらい濃厚なキスの味を。しかしそれとは比較にもならないくらい焦れったいキスをしているというのにも関わらず、物足りないどころか、互いの肝心な芯に触れられないもどかしさは興奮を増々掻き立てるようだった。舌の代わりとばかりに脚と脚とを絡め合わせて、顔面を手のひらで撫で回す。自分がどれだけ彼を欲しているのかを改めて思い知る。
息継ぎの間に途切れる一瞬すら惜しくて、離れないでと伝える代わりに亜双義はバンジークスの髪の毛を強く掴んだ。
「ンぅ、っ……」
彼が喉の奥で声を漏らす。その掠れた声に煽られて、角度を変えながらふやけてしまいそうなくらい何度も唇を交わした。
「っ、はぁ…」
乾いていた唇が互いの唾液でぐっしょり濡れて、ようやく顔を離した。すっかり息も上がっているし、互いの中心はこれ以上ないくらいの欲望を孕んで大きく膨らんでしまっている。どれだけこうして積み重ねても極みを迎えられない切なさ。だというのに、不思議と満足感があるのも確かだった。
触れられる指先から、視線から、呼吸から、自分のことを心の底から求める彼の気持ちがつぶさに伝わってくるのを亜双義は感じていた。身体の中心は燻っているが、心地よい充足感の膜に頭のてっぺんから爪の先の隅々までが包まれているみたいだった。
「……今日はこのくらいにしておこう」
本当はこんなんじゃ全然物足りない。彼の身体に硬くなった下腹部が触れる僅かな刺激でさえキツくて、このままだと彼の優しさに甘えて下劣で乱暴なことをしてしまいそうだった。そんなことをしてしまう前に、せめてこの満ち足りた気持ちのまま眠ってしまいたかった。
「おやすみ」
「良い夢を」
やわらかな彼の唇がそっと額に押し当てられて目を閉じる。待つのも我慢するのも性にあわない。好物は真っ先に口に入れて飲み込みたい。しかしとっておきの瞬間は三日待たなければやっては来ないのだ。果たして、耐えられるのだろうか……
亜双義の焦れた気持ちを察したのか、バンジークスの手が背中をゆっくりと上下に撫でさする。そうされていると、荒ぶっていた感情の嵐が徐々に凪いでいくようだった。かつてなく安らいだ心地だった。その時の記憶は少しばかりもないのだが、母と父に抱かれて眠っていた幼い頃の自分はきっとこんな気持ちだったのだろう。
亜双義は彼の静かな呼吸の音と穏やかな鼓動を聴きながら眠りについた。
目覚ましをかけずに心ゆくまで寝て目を覚ますと、既に八時を過ぎていた。亜双義はカーテンを全て開けてから、まだ夢の中にいる隣の男を揺すり起こすこととした。窓の外からは今日も惜しみなく、青さが降りそそいでいる。
朝食は二階にあるレストランで、ビュッフェ形式で用意されているらしい。とっくに身支度を済ませた亜双義は、未だ完全に目が覚めない様子のバンジークスの為に、部屋に常備されているマシンでコーヒーを淹れてやることにした。
亜双義はソファに腰掛けて自分で淹れたコーヒーを飲みながら、ニュースでも見るかとリモコンに手を伸ばす。しかし思いとどまって、彼の行動を眺めることにした。
バンジークスは昼間より五倍は遅いスピードで、のろのろと顔を洗っている。普段であれば、早くしろやらシャキッとしろと野次を飛ばしながら、時には手伝ってやったりなどもすることもあるのだが、今日の亜双義にはのんびりと見守ってやれるくらいの心の余裕があった。やるべきことが特にないという今の状況がそうさせているのかも知れない。なかなかいい気分であった。
シェービングを終えたらしいバンジークスは、髪に櫛を入れている。彼は例え休日であっても、外出の際にはセットを欠かしたことはない。それは彼が持つ数多くの美点のうちの一つであると亜双義は思っている。隙なくキチンと整えられた外貌は、彼の清廉な内面を表しているようである。室内限定である貴重な彼のオフの姿を見ることができるのは、パートナーである自分にだけ許されている特権なのだと思うと、こそばゆい気持ちと共に世界に対して優越感を感じる。
三十分以上をかけてようやく仕度を終えた彼とゆっくりコーヒーを飲んでから、朝食へと向かうこととした。
広々としたレストランでは、テーブルいっぱいにバラエティ豊かで彩りの良いメニューが用意されており、亜双義はどれから食べようかと目移りしてしまう。何しろフレッシュジュースの種類だけで十種類はあるのだから、飲み物を選ぶことさえ一苦労であった。
色々と食べてみた中で、特に鯛の出汁茶漬けと、サラダバー(近所のスーパーでは見たことない名前も知らない野菜が並んでいた)と手作りらしい人参のドレッシングが気に入ったので、何度もおかわりをした。
目の前で調理されたオムレツを持ってテーブルへ戻ると、バンジークスはひと口齧ったベーグルとヨーグルトとフルーツを傍らに置いて紅茶を飲みながら、フロントでもらった新聞を眺めているところであった。おかわりをする為何度も席を立っている亜双義と対照的に、彼は初めに一度席を立ったっきりで再び立ち上がる気配はない。腹が減ってはいないのだろうか。亜双義はデザートのカンタロープメロンをフォークで口に運びながら、何やら本人が満足そうな顔をしているのでまあいいかと思うことにした。
各々自由に過ごすといっても特にやりたいことがある訳ではなかったので、部屋でふたりで映画を見ることにした。
ソファに並んで座って、観る作品を話し合う。自分と彼とでは好みの系統が若干異なっている。亜双義はどちらかと言えば、鑑賞後爽快な気持ちになるものが好みであるのだが、バンジークスは結末が曖昧だったり、ナンセンスな世界観を好む傾向なようだ。一緒に映画館に行ったあとなどは、同じ作品を観ていたというのに互いの意見が正反対なことも珍しくはなくて、感想を言い合いながら帰る時間が亜双義は好きだった。
ああだこうだと己の主張をし合った結果、結局はVODで配信が開始されたばかりの一時期話題になっていた洋画を流すことにした。
中盤に差し掛かった辺りで亜双義はうっすらとした眠気の気配を感じた。隣に顔を向けると、バンジークスは真剣な表情で画面に見入っている。邪魔をしないよう、声をかけずに肩にもたれかかった。
快適な室温と、心地よい音楽。そして何よりも、同じ空間に彼がいるという幸せ。眠気が麻酔のように徐々に全身を支配して、とうとう身を起こしていることが辛くなってきた亜双義は、体を横にしてバンジークスの腿の上に頭を乗せた。彼の指先が優しく髪の毛に触れるのが気持ち良くて、瞼がどんどん重たくなっていく──……
目を覚ますと映画はとっくに終わっていたどころか、スリープタイマーの機能によって画面が暗くなっていた。数分のつもりだったのだが、どうやらたっぷりと寝てしまったらしい。目を擦りあくびを噛み殺しながら視線を上へと向けてみれば、バンジークスもソファにもたれかかってすぅすぅと静かに寝息を立てていた。この様子だと、映画の結末がどうであったのかを彼から聞くのは難しそうだ。亜双義は、まるで大切なものを抱えるように自分の体に回されている彼の腕にそっと触れる。
亜双義は、それがたとえ彼と共に朝を迎える日であっても、習慣である早朝のランニングは欠かしたことがなかったし、日が昇っている間は何かしらいつもやるべきことがあった。今朝のような遅い時間に起きたのも、今のように昼寝をするのも、いつぶりだろうか。
この旅行を計画していたときに知ったことであるが、ホテルに滞在すること自体をバカンスとして楽しむことを、ホカンスと呼ぶらしい。するべきことを決めず、ただふたりでのんびりと過ごす。こうして安寧の中に身を置いてみると、忙しなく、目的に向かって突き進むのも自分にとっては重要なことではあるが、時にはこうして一息つく時間も人生においては必要なことなのかも知れないと思えた。
亜双義はバンジークスを揺り起こそうとして伸ばした腕を止める。その代わりに、まだ目覚める気配のない彼の膝の上に頭を乗せたまま、持ってきた文庫本を開いた。
日が傾いた頃、目を覚ました彼が「さっぱりしたものが食べたい」と言うので、夕食は日本料理のレストランで冷しゃぶ会席を食べることにした。
バンジークスは江戸切子の美しいグラスに注がれた冷酒をキュッとあおりながら、「こんなにのんびり過ごすのは久しぶりだ」と言った。きっと彼も自分と同様に、普段昼寝をすることなど滅多にないのだろう。ほんのりと赤く色付いた彼の相貌は、確かに普段の険しさが抜け落ちて嫋やかにゆるんでいる。
「部屋に戻ったらマッサージでもしてやろうか」
牛肉としいたけにポン酢と鬼おろしをたっぷり付けて口へ運びながら、亜双義が冗談半分本気半分でそう言うと、彼は顎に手を当てて少し考える風な仕草をしてから
「キミは力の加減ができなそうだ」
と言って木漏れ日のような笑顔を見せた。その目尻の皺を見ながら、亜双義はここへ来たのは本当に正解だったと思った。
部屋に戻って、今夜は一緒にジェットバスに入ろうか、と提案すると、バンジークスが意外にもすんなりと了承するものだから驚いた。
ジェットバスがあるプライベートガーデンは、亜双義が一人で住んでいるアパートの一室ぐらいの広さがあって、レインボーブリッジを背景に湯気を立ち上らせている光景はロマンティックを通り越して、なんというか、やりすぎ感がすごかった。自分から誘ってみたものの躊躇してしまう。非日常な光景に頭がクラクラした。
しかしそれ以上に亜双義の意識を奪ったのは、バンジークスの立ち振る舞いであった。
恥じらう様子もなく、身に纏っているものをするすると脱ぎ落とした彼は、先にバスタブへ足先を浸すと「来ないのか?」と言って振り返った。エクステリアライトで照らされ、身体の凹凸をくっきりと浮かび上がらせた彼の裸体はまるで美術館の彫像のようで目が奪われた。今の今までやりすぎなどと思っていた光景は、彼の圧倒的な存在感によって突如として幻想的な風景へと姿を変えてしまったのだ。
のびのびと脚を伸ばして浸かれるくらい広いバスタブだというのに、膝が触れ合うほどの近距離で二人は向かい合う。
「今夜は、なにを?」
首を僅かに傾げたバンジークスが、撫でるように亜双義の側頭部へと指先を差し入れる。することなど絶対に知っているはずなのにわざわざ確認してくる様子を見るに、ウブな態度をとるのはやめて、彼もこの試みを楽しむことにしたらしい。それはこちらとしても望むところではあるのだが、彼に主導権を握らせることだけはさせるわけにはいかなかった。
「ディープキスと性感帯への接触だ」
亜双義は自分に触れている彼の手を取り指先を絡めると、一気に距離を縮めて唇を重ねた。薄く開いた彼の唇の隙間から舌を捩じ込ませて、正しく揃った歯列をなぞる。
「ふ、ンっ……」
彼の熱い息とくぐもった声が頬にかかった。背筋をゾワゾワと性感が駆け昇る。膝の上に乗り上げて口内に引っ込んでいる舌を絡め取ると、彼がもっととねだるように背中を抱き寄せた。熱に浮かされるがまま激しく互いの唾液を混ぜ合う。気が遠くなるほど気持ちがよかった。
貪るように互いの粘膜を味わいながら、ささやかな攻防があった。絡めていない方のバンジークスの指先が亜双義の耳朶に触れた。どこまでもやさしげな指先に全身がじんわりと熱を持つ。その触れ方から、彼がリードしたがっているのだと感じたがそうはさせるかと思う。
自分と彼の間には現在、どうしても埋めることが難しい経験の差というものが存在している。だが自分が生きている限りは、かなり先のことにはなるだろうが、そんなものいつかは縮まるだろうと亜双義は思っている。
厄介なのは人間としての差である。情けない大人がいたり尊敬すべき子供がいるように、これは時間の経過だけではどうしても叶わない、懐の広さとか感性とか心の豊かさなんかの問題である。
亜双義は自分以外の他人と接しているバンジークスを目にする度に痛感していた。人間としての器の差を。そして差を感じるたびに、誇らしかったり切なくなったり焦ったり苛立ったり。複雑な感情が胸いっぱいに渦巻いて、心が掻き乱されてしまう。
格好つけたことをつらつらと述べてみたが、要するにまあ、あれだ。自分が彼を必要としているように、彼からも必要とされたい。ただそれだけなのだ。自分が彼から与えられているように、自分からも彼に与えたかった。快楽も悦びも幸福も、ぜんぶ。欲しいものをすべて与えるから、あわよくば彼にも自分と同じように取り返しがつかないくらい、焦がれて欲しいと思う。
そんなこちらの気も知らず、彼の困った指先は明確な意図をもって首筋をくすぐっている。亜双義は気持ちよくさせようとしてくる彼の手をたしなめるように掴むと、ずいと顔を近付けた。
「オレがする」
有無を言わさず掴んだ手首を口元へ引き寄せ指先にキスを送り、すかさず油断した右の人差し指と中指をパクンと咥えた。
「っ、……」
指の腹を舌先でくすぐり、短く整えられた爪先に歯を立てる。軽く吸い付きながら関節を唇で挟んで、唾液をたっぷりと絡めながら前後に揺らす。奥まで咥え込んだと思えば、指の股を舌先でちろちろとねぶって、ちゅぽんと音を立てて口内から引き抜く。お湯で濡れた手の甲をくるくると撫でさすりながら彼の方を見下ろせば、はく、とわななく唇の合間から真っ赤な舌が見えた。
「指を舐められて興奮したのか?」
「……キミこそ。指を舐めて興奮したのか?」
「そんな顔をされたらこうなる」
下半身をぐっと寄せて腰を前へ突き出すと、温湯よりも更に熱いもの同士が触れ合って、いっそう息を上げたバンジークスはそっと瞼を伏せた。完全にアドバンテージを手に入れたと確信した亜双義は、彼の鎖骨にトンと置いた指先をじりじりと辿り下ろしていく。
「……ッ」
淡く色の付いたそこを人差し指の腹でくるくると撫でてやると、息を飲んだ彼は非難がましい目付きをしてクッ、と眉根を寄せた。
「……ずるい」
「ずるくない」
「っ、あっ……」
そっぽを向いてしまわないように額と額を合わせて、両の胸の先をきゅんと摘み上げるとバンジークスの身体はピクンと跳ねて、濡れて束になった睫毛が快楽に小さく震えた。
「ン……あ……」
手のひら全体で包むように胸を撫で、硬くなった乳首を掌底で押し潰す。好きな触り方をしてやりながらも、どうしても我慢ならず下腹部をぐりぐりと押し付ければ、感に耐えず声を漏らした彼が縋るように二の腕に爪を立てた。性器への刺激は今日はまだNGなのだが、これくらいはどうか、許して欲しい。
「カズマ……」
ねだる声で名前を呼ばれただけで、彼が何をして欲しいのかが分かってしまう。互いに辛くなるだけということは分かっているはずなのに、どうしてもせずにはいられなかった。
亜双義はバンジークスの膝から下りて身をたわめると、ツンと尖って赤く色付くそこへ舌先を伸ばす。頭上からこくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
「あ……ん、ン……」
ぺろんと舐め上げてから、舌を固く尖らせて、ちろ、ちろ、とつつく。唇で強く挟んでやれば、彼の肌の表面にサッと鳥肌が走った。上下の唇で甘く挟んで押し潰し、唇を尖らせてちゅうっと吸い上げる。そうしながら、硬さを増したもう片方の胸の先に爪を立てると、バンジークスは身悶えるように身体を捩って唇を強く噛んだ。
「ぅ、く……、あ……」
もう駄目だと思った。湯気に混ざって夜空へと溶けていく追い詰められたような声も、熱病患者のような荒い呼吸も、切なげに寄せられた眉根も、頭を掻き抱く腕も、ナカにいるときみたいに腰に巻き付けて引き寄せようとする脚も。バンジークスの反応はことごとく亜双義の理性をブチブチと毟り取っていく。だって自分は知ってしまっているのに。彼の奥の粘膜の熱さも、やわらかさも、淫蕩さも。何もかもがもう限界だった。
いれたい。いれて、突き上げて、揺さぶって、キスをして、名前を呼んで、彼が涙を零すまでめちゃくちゃに責め立てて気持ちよくさせてやりたい……身震いするほどの強烈な激情に、脳が焼かれてしまったみたいだった。
「っ……!」
亜双義はバンジークスの膝の裏に手を差し入れた。どこまでも上がる柔軟な左脚を思い切り持ち上げて、固く閉じたそこへそそり立つ陰部の先端を突き当てる。
情火に飲み込まれそうになったその時、はぁ、はぁ、とあえかな呼吸を繰り返しながらこちらを見上げる彼の瞳と目が合った。その瞳は欲情に濡れて、愛慾が淫らに滴っている。
──耐えているのは自分だけだと思っていたが、彼のこの、陶酔を待ち望むかのような哀願の目付きは一体なんだ。彼も欲しくて堪らないのではないか……?
今回の提案を飲んだ以上、彼が自らルールを破るなど有り得ないことだし、ましてや自分の快楽を優先することなど以ての外である。亜双義の知る、バロックバンジークスとはそういう男だ。だとすれば、自身が屈するのではなく、こちらが先に降参するのを今か今かと待っているのではないか……その場合、今与えてやれば彼の望み通りということになるが、オレにとっては惜しいことではないだろうか。だって、与えなければ叶うかもしれない。焦らして焦らして焦らし倒して、この男をおかしくさせてしまうことが。おかしくなってオレのことしか考えられなくなってしまえばいい。この旅行中だけで構わないから。
亜双義は強靭な意思でもって、己の欲望を制御する。これからしようとしていた行為をグッと押しとどめて、ふーっと息を吐いた。
「……今日は、ここまでだ」
低い声でそう言って頬をつるりと撫でれば、バンジークスの瞳に落胆の色がさっと滲んで、けれどもそれは泡沫のように一瞬で消え去った。
絶対に辛くて堪らないはずなのに、心持ちを立て直したらしい彼は、いつもの端厳とした顔に戻り黙って頷いた。こういった、己を律して気高くあろうとする姿がたまらなく好きだと思う。
亜双義はバンジークスの濡れて額に張り付いた前髪を持ち上げて、生え際にじわりと浮かぶ汗を吸い取るように唇を押し当てた。されるがまま大人しくそっと瞼を下ろした彼の様子に、愛おしさがふつふつと込み上げる。
亜双義は彼に対する気持ちが月のように満ちていくのを感じていた。ただひとつ月と異なるのは、この気持ちはこれから先も決して欠けることがないということだ。
禁欲がここまで辛いものだとは思わなかった。
珍しく先に目を覚ましたバンジークスは、ベッドの中で頭を抱えている。こちらの苦悩など露知らず、昨夜散々人の身体を弄り回していた青年は、背後から身体をしっかりと抱きすくめながらまだ夢の中にいるようだ。
こんな風にして二人一緒に朝を迎えるのは、自分たちが初めてベッドを共にしたとき以来だろうか。目覚めたとき、隣にいるはずの彼はおらず、冷えたシーツの上で一人で朝を迎えるのが当然のことだったから、この状況にバンジークスはとても喜びを感じる。
ただ始末が悪いのは、図らずも腰の辺りに当たっているものの存在であった。硬く、熱いそれが自分の身体の内部に捩じ込まれる快感を、寝惚けた脳が勝手に再現してしまう。どこまでもあまく、やさしく、はげしく、彼にしか触れることの出来ない身体の奥にある器官を容赦なく突き上げられる感覚。意志などは関係なしに、バンジークスの全身は自然と粟立ち、背筋が勝手に震えてしまう。
「……ッ、……」
漏れ出てしまいそうになる声を必死に押し殺す。本人の知らぬところで勝手に欲情をしているなど、絶対に知られたくない。けれどもバンジークスの全身が、全細胞が、彼を求めてぴくぴくと悶えている。下半身に手が伸びそうになってしまう衝動を抑え込まねばならないのは、ほとんど拷問に等しい苦しみであった。
「……ん……起きているのか……?」
グッと眉を寄せ、ひとりそうして耐えていると、目を覚ましたらしい亜双義の眠たげなやわらかい声が首筋に降りかかった。行為中を彷彿とさせるかすれ声に我知らず喉が鳴る。更に強く両腕を絡ませ逃げ場を無くされて、うなじや肩口にぷちゅぷちゅと唇を落とされれば、バンジークスの体内には小さな嵐が巻き起こる。けれども性的な意味合いを含んでいないその唇には触れることが憚られて、彼の髪を撫でるのみとした。
欲望を抑えているなどとはおくびにも出さない涼しい顔で、亜双義は今日もテーブルいっぱいに並べた栄養バランスの良い朝食を次々と口に運んでいた。バンジークスの満腹中枢は、旺盛な食欲で大量の朝食をぺろりと平らげる彼の様子を見ているだけで充分に満たされるようだった。健康的で非常に感心なことである。
「今日は散歩でもどうだ」
器に付いた米粒のひとつも残さず綺麗に食べ終えた彼が、西瓜を齧りながら首を傾げる。
天気も良いし、ベイエリアを二人でのんびり歩くのはどんなに楽しく有意義なことだろう。とても魅力的な誘いではあったのだが、バンジークスには簡単に頷けない理由があった。
目を伏せて「今日はジムに行く」と伝えれば、不服そうな表情をしながらもこちらの事情を察してくれたらしい彼は、素直に了承してくれた。
身体の内側を甘苦しい何かがのたうち回っている。ドレープのように蓄積された快楽と欲望が放出されないまま、ただただ燻っていた。どこもかしこも戦慄いて、今朝などとても人には言えないような夢まで見てしまう始末であった。いつも目を覚ましたときには既にいない彼が、同じベッドに居てくれることの幸福を静かに噛み締めていたかっただけなのに、こんなのあんまりではないか。
バンジークスは途方に暮れている。自分はいつからこんな風になってしまったのだろう……
そんなことは決まっている。彼を知ってからだ。
明るく開放感のあるジムに利用者はまだ訪れておらず、好きなマシンを好きなだけ使うことができた。レンタルしたスポーツウェアに着替えたバンジークスは、脳内を蝕む不埒な妄想を振り切るように、ランニングマシンでひたすらに走ることにした。
彼からこの旅行の趣旨を聞かされたとき、ほんの少しだけショックを受けた。自分の仕事の都合で期間が減ってしまったとはいえ、旅行に行きたいと提案された瞬間からバンジークスは、彼と様々な場所へ赴き思い出を積み重ねることを心待ちにしていたのだ。それが、身体の欲望を満たすのが趣旨なのだと言われてしまったら、こちらの戸惑う気持ちも察して欲しい。
しかしそれがどうだろう。彼から渡された本に目を通したところ、ポリネシアンセックスなるものが一体なんなのか少しばかりの知識も持ってはいなかったバンジークスの目から鱗が落ちた。身体の欲望を満たすどころか、気持ちの繋がりを目的とした行為なのだということが分かってしまったのだ。
彼は快楽のみではなく、愛情の交流を求めている……それを理解してしまった瞬間、バンジークスの身体の芯に火がついた。どうしようもない悦を感じて、深い部分が疼いてしまってしょうがない。けれども、彼の気持ちも無駄にはしたくない。真摯でひたむきな愛情を知ったというのに、「今すぐにしたい」などとどうして言えようか。
果たして自分はこれ程までに欲深い人間だっただろうかとバンジークスは唸る。
せっかちな彼のことだから開始早々ギブアップするものだと高を括っていたのだが、それは完全に自分の誤算であったらしい。彼には何か考えがあるらしく、頑なにルールに則って遂行しようという意思が感じられる。強固な意志と確かな行動力。これこそバンジークスの思う亜双義の魅力そのものなのではあるのだが、今はとにかく彼の熱を感じたい。彼の体重を感じ、猛りを感じ、芯が砕けてしまうような悦楽を感じたかった。
これまで自分は欲望が薄い人間だと思っていたが、そうではなかったのだと気が付いた。まだ出会っていなかった。ただそれだけのことだった。
日中一緒に過ごせなかった分、最後のディナーはルームサービスを頼むことにした。サーフ&ターフやサラダ、ピザに寿司などを並べた豪華なテーブルをふたりで囲む。
亜双義は盛んに、今日散歩中に出会った人のことや、見た景色、自分が感じたことなどをバンジークスに話して聞かせてみせた。離れて過ごした時間を埋めるような彼の態度に申し訳なさが積もって、胸がチクリと痛む。
この二日間で丁寧に追い詰められ、昂ったまま手放され続けた肉体は、全ての感覚が鋭敏になってしまったようだ。特に嗅覚と知覚の過敏さは、バンジークスにとって大問題であった。
亜双義の近くにいると、普段は全くと言っていいほど感じることのない彼の微かな体臭を嗅ぎとってしまって、身体の奥がジンと痺れてしまう。若い体から発せられるその香りは、まるで酩酊を引き起こす劇薬のようであった。
これだけでも十分問題だというのに、もしこれでどこかに触れられでもしたら……そんなことになれば、身も世もなく彼に縋り付き、下劣ではしたない行いに及んでしまいそうだった。例えそれが相手には性的な意図がなかったとしても。彼にだけはそんなみっともない姿を見せたくないと思う。
そういった複雑な心境もあって距離をとるような真似をしてしまったのだが、ベッドの中となれば話は変わってくる。昨夜は意地になっている様子の彼に阻まれてしまったが、こちらにだって伝える権利はあるはずだ。どれだけ彼を大切に思っているかを。
「今夜は私に任せてもらえるだろうか」
先にシャワーを浴び終わってベッドの上で待つ亜双義にバンジークスはにじり寄る。形式上、語尾は疑問形の体をとったものの有無を言わせぬ強い口調で言い切れば、ヘッドボードに背を預けている彼の全身からは観念したように力が抜けた。
伸ばされた両の脚を跨いでシーツに両膝をつける。猫の挨拶のような触れるだけのキスを唇と首筋に送って、バンジークスは四つん這いになって亜双義の足下へじりじりと後ずさった。
踵とひかがみに手を添えて脚を持ち上げると肌からバスローブが滑り落ちて、靭やかな筋肉をまとった左脚があらわになった。これから自分が何をされるのかと、唇を真横に引き結び好奇心と期待とが入り交じった瞳で固唾を飲む亜双義の顔面から視線を外さぬまま、くるぶしの内側に唇を落とす。
彼が息をつめるたび内腿に美しい筋肉のすじが浮かび、爪先の強ばりからは緊張が伝わってくる。宥めるようにふくらはぎを撫でながら、舌を当てて土踏まずの見事なアーチを辿る。
──こうしていると、彼と初めて交わった日のことを思い出す。
覚悟を決めて望んだはずだというのに、バンジークスの身体は緊張で強ばっていた。亜双義はベッドに横たわったバンジークスの髪の先から爪の先に至るまでを、まるで快楽の芯を探し当てるかのようにじわりじわりと開いていった。固い結び目をほぐすように慎重に、且つ丁寧に、指と口とを駆使して。
そうしてたっぷりと時間をかけてくれたというのに、バンジークスの身体は彼をすんなり受け入れることができなかった。全身とろとろにふやかされているというのにも関わらず、その場所のみは頑なに閉じたままだった。
何度試しても上手くいかず、焦りと申し訳なさから脂汗を流すバンジークスの髪を、亜双義は優しく撫でた。「気合いを入れろ!」などと檄を飛ばされるかと思っていたのに、彼は大層大事なものを抱えるようにして胸元へ頭部を抱き寄せると「大丈夫だ」とひとこと言った。
庇護するような穏やかな声音を聞いて、バンジークスはいよいよ腹をくくった。覚悟などとうにできていると思っていたはずなのに、未知の行為によって自分が変わってしまうかもしれないという恐怖が心の底にあったのだと思う。彼の為なら変わっても構わないと思ったし、自分の全てを開け渡そうと思えた。
愛に理由などないと言うけれど、こういった思いやりの欠片のようなものが折り重なって、現在や未来の自分達の絆は紡がれていくのだろう。自分の肉体が彼に悦びを与え、その悦びを共有できるということは、何にも変え難い幸福だった。……。
爪の先へ、足の甲へ、脛へ、膝へ、転々と吸い上げる口付けを繰り返しながら熱の核心へと向かっていく。時折張りのある皮膚にやさしく歯を立てると、息を凝らした彼の唇が薄く開く様子が愛くるしい。そうしながら腿の内側のやわらかな皮膚へ、鼠径部へと辿っていく……
欲しくて堪らない彼のそこが大きく膨らんでいるのが視界に入った瞬間、舌の奥に唾液が溢れた。
彼の下着に手をかけようとしたその時、軸としていた左手を取られてバンジークスの背中はシーツに沈む。
「……任せて欲しいと言ったはずだが」
「だったらそんな触って欲しそうな顔をするな」
下半身に跨った彼がバスローブの腰紐を解くと、ボディーソープの芳香に混ざって汗の匂いがふわりと香った。総毛立つような興奮が全身を巡る。「今すぐ欲しい」という言葉は、どちらともなく重ね合わせた唇の中へと飲み込まれた。とろとろと舌を絡ませ合って、段々と早くなっていく呼吸の音を聴きながら互いの指先を探す。
愛撫のような口付けをほどこしながらも亜双義の右手は器用にバンジークスのバスローブをはだけさせていく。張り詰めているものを下着の上から手のひらでゆっくりとさすられれば、身体がビクリと跳ねた。今日は何をするかなどといった野暮な質問は、もうしなくてもいいだろう。
「…ふ……ん、ンっ……」
下着の中へと入り込んできた指先が潤みをまとった先端に絡みつく。喉から零れた自分の声は酷く甘えたものだった。下半身にもたらされる感覚に持っていかれそうになる意識を必死で引き剥がして、バンジークスは舌先を彼の咥内へと差し入れる。くすぐるように上唇を舐めると、その動きに呼応するように亜双義の手が小刻みに上下に動いた。
「ン、……あ……あ……」
自分ではどうにもできない濁流のような快楽に突き動かされるまま、バンジークスは両手で亜双義の顔面を引き寄せ右脚を腰に纏つかせる。くびれを捉えた彼の人差し指にしゅりしゅりと擦り上げられて腰が浮き上がった。彼の手の中で熱を孕んだ下腹部がずっしりと質量を増していくのを感じた。
「さわって、」
手首を掴まれて導かれた彼のそこは自分と同じように大きく張り詰めていた。下着の中で窮屈そうに震える猛りの先端には雫が滲んでいて、恥毛までをも湿らせているのを手のひらで感じてしまえば、バンジークスの目の裏は昂奮で焼け付くようだった。筒のようにした手で、慰撫するように根元から先端までをじっくりと往復させる。
「……っ、は……」
感じ入った彼の吐息が空気を震わせる。息の触れ合う距離まで顔を近付けて互いの瞳を覗き込めば、淫蕩の色にとっぷり染まった自分の表情が見えた。
いつからだろう。弟のように可愛く思っていた彼にそれ以上の感情を抱くようになったのは。そんな彼をオトナにさせたのは他の誰でもなく自分なのだ。真っ直ぐ前だけを見据える彼の凛々しい瞳は今や愛慾に濡れている。一陣の風のような面立ちが色に蕩けてほどけて、一心に自分を求めているという事実がますます極みへと押し上げる。バンジークスは瞼を下ろし、我を忘れて手淫に没頭した。
「う、あ……かずま……、ぁ、ああ……」
「は……く、……」
手のひらを強く動かせば、相手も力強い快感を返してくる。ゆっくりと繊細な快感を与えれば、相手も同じ細密な快感を返してくる。快楽が連鎖して、波紋のように身体の隅々まで広がってゆく。手の中にある彼のものが自分のものであるかのような錯覚が、興奮をますます引き起こした。
「ぅあ……あ、あ…………」
「……ッふ……バロック…………!」
慾望に煌々と光る優秀な猟犬の様な瞳に見下ろされて、バンジークスは自分が捕食されているような錯覚に陥った。彼ならきっと自分の骨の髄までしゃぶり尽くして、細胞の一片すら余すことなく全てを食べ尽くしてくれるのだろう。さらけ出した首筋に鋭い犬歯をたてられながら、彼にならこの身の全てを与えてもいいと、このときのバンジークスは本当に、そう思った。
「……あッ、イく……っ、……!」
間もなくバンジークスに極みが訪れようとしたとき、亜双義の手の動きがピタリと止まった。
「ッ……!」
下肢が大きく引き攣る。行き場のない性感の塊がぐるぐると渦巻いて腰の奥にわだかまっている。正常な意識や羞恥心などすでにどろどろに融けて消えて、煮え滾る慾を早く解放して欲しいただただそれだけが脳内を支配する。
あまりの切なさに続きを乞う目付きで見上げれば、自分と同じかそれ以上に苦悶の表情で歯を食いしばる彼の表情があった。
「かずま……くるしい……」
このままではおかしくなる。今すぐ身も心もめちゃくちゃに食い荒らして欲しくて、すがるように呟いた言葉は髪を撫でる彼の指先に絡め取られて掻き消えた。
「……、ふたりで成し遂げよう」
額に唇を強く押し当てて絞り出すように言った彼の言葉を聞きながら、バンジークスは今自分のいる場所が天国なのか地獄なのか、なにも分からなかった。ただ、自分たち以外には誰も辿りつけないような場所であることだけは分かっていた。
亜双義は静かな雨の音で目を覚ました。時計の針はまだ六時を回ったばかりであった。
天気予報によれば、たしか好天が続くはずだったのだが……そう思いながら手を伸ばしてみたものの、指先は冷たいシーツを掴むのみだった。目を凝らしてみれば隣で寝ているはずの彼はおらず、この音は雨音ではなく彼がシャワーを浴びている音だと理解する。それと同時に、目覚めたときに居るはずの、居て欲しい人が居ないというのは、こんなに心細いことなのかと初めて気がついた。
──昨夜は本当に危なかった……あれほどまでに弱弱しく切なげにねだるバンジークスの声音や様相を、亜双義は初めて目の当たりにした。か細く震える唇が言葉を紡いだ瞬間、彼が悪魔に見えた。憂いを帯びた表情にくらくらっときてしまい、危うく誘いに乗りかけたものの、よくぞ耐えたと自分で自分を讃えてやりたい気分である。
してしまうのは簡単だ。本能に身を任せるだけなのだから。彼は亜双義の望み通り、十分おかしくなっているように見えたし、精神的な結びつきだってひしひしと感じている。本来の目的は存分に果たせたのではないだろうか。
しかし目的を達成したからといって過程を省いていいかといえば、それは否と言える。当初の決め事を破ってしまえば(しかも己の欲望によって)、後々彼が自己嫌悪に陥るであろう事は火を見るより明らかだ。この素晴らしい四日間を、彼の中でしこりとして残したくない。ただその一心で、亜双義は己の内に棲む魔物に見事打ち勝ったのだ!
それに、好物を目の前に据えられて涎を垂れ流しているような今の状況は、なにも辛いばかりではなかった。
受け入れられる幸福感や、大切なひとの身体を好きに暴けるという征服感に酔いしれたこともある。けれども元来セックスとは、相手の肉体に力を加えて物理的に支配するものではなく、深い喜びを共有する行為なのだということを改めて実感することができたのだから。
最終日は明るい昼間に行うのがいいらしい。とは言っても、チェックアウトの十二時までに終えなくてはならないから、そこまで悠長にもしてはいられないだろう。先に朝食を、とも思ったが、彼のシャワーが終わったら自分もすぐ昨晩の汗を流しに向かった方が良さそうだ……そのように考えた亜双義は、ベッドの下に落ちたままのバスローブに手を伸ばしかけて途中でやめた。
そんなことを考えていると、バスローブを羽織ったバンジークスがシャワールームから出てくるのが見えた。
「今日は随分と早起きだな」
亜双義は眺めていたルームサービスのメニュー表をサイドテーブルに置いた。彼は軽口に対して何も答えず、怒っているような微笑んでいるような、曖昧な表情のままつかつかとベッドの方へ近付いてくる。まだ乾かしていないのか、その髪の毛は濡れていた。
「おい、髪を乾かせ。風邪をひくぞ」
それでも彼は引き返す素振りを見せない。聞こえていないとでもいうかのように亜双義の小言を無視して、バンジークスはベッドの上に片膝を乗り上げる。
「おい」
もう一言言ってやろうと眉を吊り上げた亜双義は、強い力で両肩を押されてシーツの上へ仰向けに倒れた。四つん這いになった彼が馬乗りになると、ぎしりと音を立てたスプリングがより深く沈んだ。髪の毛の先から、先程までは温かかったであろう液体が冷たい雫となってぽたりぽたりと降ってくる。
込み上げる愛おしさをそのまま体現したような優しげな仕草で、バンジークスの手が頬を包む。その真剣な表情に射抜かれたように身動きが取れなくなってしまって、されるがまま唇を重ねた。
「……っふ、はぁっ」
熱く湿った彼の呼気が粘膜を撫で上げて、全身がふつふつとざわめく。こんなのおかしい。今すぐ自分がめちゃくちゃにしてやりたいと思っていたのに。それだというのに亜双義は、まるで圧倒的な優しい闇に支配されるように、バンジークスに全身を委ねている。
この上なくやさしいけれど、塗りつぶそうとしてくるような口付けで頭の芯がぼぅっとふやけ始めたそのとき、身体を下へずらした彼がボクサーパンツに手をかけた。後ろに両肘をついて上体を起こして見下ろせば、露わになった性器が彼の口の中へ飲み込まれようとしているのが見えた。
「っ、あ……!」
制止しようとする間もなく、突き出した舌で根元からべろりと舐められて腰が浮き上がる。バンジークスは、生理現象によって緩やかな角度で屹立していたそれを先端から少しずつ食むようにして、ゆっくりと口の中へと含んでいった。亜双義はその光景を見ながらただただ熱く息を吐いた。
「ぅ、ぐ……」
ちゅぷ…ちゅぷ…と控えめな音を立てて彼の顔が上下する。その度下腹にさらさらと当たる髪の毛先ですら淡い刺激となって、亜双義の身体を揺らす。あたたかく濡れた頬の肉が粘膜を隙間なく包み込み、平たくされた舌が裏側をべったりと這う。継ぎ目の敏感な筋を細かくねぶられれば身体の中心を貫くような性感が走って、堪らず呼吸が乱れた。
「ッ、はぁ、あ」
数え切れぬほど彼と肌を重ねてきたが、これまでこんな風に口でしてもらったことなどは滅多になかった。もちろん自分からしたことはあるし彼は度々したがっていたけれど、お育ちのいい彼にこんなことをさせるのは気が引けるし、正直なところ、自分の手腕を持ってして彼をぐずぐずにさせる方が興奮するというのも、ある。
情けなくも声が漏れ出てしまいそうで、亜双義は腕を伸ばしてバンジークスの額に垂れ落ちる濡れた前髪に触れる。上体を起こした彼の瞳は淫溺の色を湛えて鈍く閃き、唇の端から一筋の唾液がつうと糸をひいた。
亜双義は身体を起こして、バンジークスのバスローブの腰紐を解く。彼は下着をつけていなかった。手を伸ばして下腹部に触れる。普段しっかりと固くなるまで時間がかかるそこは、既に立派に反り返って淫液を零してすらいた。もう頃合いだった。心だけではなく身体も通じ合いたかった。今すぐに。
バックパックの底に隠し持ってきたコンドームを取り出して、ベッドに並んで横たわる。亜双義はバンジークスの右脚を持ち上げ高くかかげた。バンジークスは意識をしてか無意識なのか、腰を淫らにくねらせ「はやく、」と急かす。極限まで引き絞られた弓のように、緊張と高揚がこれでもかというほど押し寄せる。亜双義は彼の口で育て上げられたそこを、ひくつく窄まりへとあてがった。彼は喉の奥で甘い喜悦の声を漏らした。息を止めて、ずぷんと一気に突き入れる。
「────あ……!」
「ふっ……く……」
くるむように吸い付いてくる入り口の粘膜を通り抜け、腰を揺らしながら締め付ける肉の中を進む。バンジークスは背中を震わせながら、素直に亜双義を受け入れた。横に寄り添ったふたりの脚が、松葉のように交差する。腕を背中へ回して、まるでひとつの生き物かのように上から下まで肌と肌とをぴったりと密着させた。
「あ、ぁあ、あ、……」
「ッ…………」
湿り気を帯びた声を漏らした彼に強い力で頭部を抱き寄せられる。亜双義は汗でじっとりと濡れた胸元に額をつけながら、鋭い射精感を逃すように尻の筋肉を強ばらせた。
そうして波が過ぎ去るのをじっと堪えていると、彼の様子がおかしいことに気がついた。断続的にビクビクと身体を揺らしながら息を乱しているではないか。これは、まさか……
「…………は?」
触れてみると、どろりとした粘液で腹の間が濡れていた。
衝撃だった。なんと、バンジークスは挿入時の衝撃だけで達していたのだ。怒りにも似た暴力的な昂奮が、亜双義の脳髄を焦がした。バツンと音がして頭の中のなにかが切れた。
とろけたように弛緩している彼の身体を仰向けに返して両脚を大きく割り開き、バチュンと腰を打ち付ける。バンジークスの身体が大袈裟に跳ね上がる。焼き切れてしまった理性の中、もう身体を気遣ってやれる余裕などどこを探したってありはしなかった。再度奥を抉って、吐精後の恍惚とした余韻の中瞼を半ばまで下ろして微睡んでいたバンジークスの意識を強制的に覚醒させる。ぼやけていた瞳がはっきりと焦点を結び、視線が絡んだ。
「ッあ……! ぅあ…ァ、あ……!」
一度極みに達したバンジークスのそこは、熱くて、狭い。ここまで耐えに耐え、散々焦らされてたっぷりと追い詰められた彼の陰茎は、うすく濁った体液をたらたらと垂れ流し続けながら揺れている。あまりにも淫靡な有様に目眩がした。
腰を引くと、熟れきった粘膜が逃すまいと切なげに吸い付いてくる。食いしばった奥歯の隙間からふぅふぅと荒い呼吸を漏らしながら、亜双義は彼の胎内の泣き所をぐにぐにと押し潰した。
「ァ、かず……、ま、……って、だめ……やめっ、や……あ、ぁ、ッ……」
いやいやとかぶりを振りながらバンジークスは亜双義の胸を押し返そうとする。しかし亜双義は気付いている。彼は本気で止めて欲しいなどとは思っていないということを。本当は続きをねだっていることを。本気で止めようとしたのなら、自分は体格や腕っぷしにおいて、彼に適うはずなどないのだから。いつもそうなのだこの男は……!
「ンっ……、う、あ……ぁあ、あっ……」
彼の両手首を掴み取り、ベッドの上にきつく押さえ付ける。彼の涙まじりの甘え声は昂った神経にねっとりと絡むようだった。亜双義はなるべくじっくりと引き抜いてはゆうるりと突き挿れる、彼が悶えるやり方でじわじわと責め立てる。臍のくぼみに溜まっていた汗と体液が混じり合った液体が、とろりと溢れ落ちた。
「うァ、……ぁ、ッあ……!」
そうしながらも、くんっ、くんっ、と小刻みな動きで腰を揺すり上げて内側のしこりを突き上げてやると、ぐっと眉根を寄せ今にも泣き出しそうに顔面を歪めたバンジークスは、いく、いく、と譫言のようにつぶやいてつま先をきゅううと丸める。その直後、ゆるく角度のついた陰茎からは精液がとろとろとこぼれ落ちた。
「ぐッ……」
その瞬間、バンジークスの下腹部が不規則に痙攣したかと思えば、咥え込んだものをギチギチと締め付けて予測不能に蠢いた。肉襞の翻弄に堪えきれず、彼の奥に深く腰を沈めたまま亜双義は遂情した。
「……っはぁ……! は……」
「ン……ぅ……」
肩で大きく息をしながら、シーツに片肘をついて彼の顔を見つめる。浅く呼吸を繰り返す半開きの唇は艶やかに濡れて、乾いた唾液の筋が跡を残す。涙の膜に覆われた菫色の瞳はキラキラときらめいて、忘我の表情でこちらを見上げていた。亜双義は涙で濡れたまつ毛に唇を落とす。バンジークスは全てを享受するように、ゆっくりと瞼を下ろした。
腰を引くと、その刺激までも快感として受け取った彼はぶるりと身震いをした。役目を終えたコンドームを結んでいると、背後で寝転んだままの彼がルームサービスのメニュー表に手を伸ばす気配がした。
「こんなので気が済んだのか」
亜双義は振り返り、二個目のゴムの包装をピリリと破いた。バンジークスがギョッと目を見開く。
「オレは、まだだ」
「待て」
本気か分からぬ制止の声など無視をして、亜双義は未だ絶頂の余韻冷めやらぬバンジークスの身体をうつ伏せにひっくり返す。そして震えの去らない尻たぶを割り開き、脈打つ陰茎を捩じ挿れた。
「っァ…………!」
すっかりやわらかく潤びたそこは、なんの抵抗もなく根元まで一気に亜双義を飲み込んだ。声にならないような声を上げたバンジークスの背中がぐんと反り返る。襟足から流れる落ちる汗の雫が浮き出た肩甲骨の間を通って、背骨の凹凸を舐めしゃぶるように濡らしていく。
背中に覆いかぶさり、しっとり湿った肌の上にいくつも浮かぶ珠のような汗を舐めとりながら容赦なく奥を捏ね回す。
「う、ぅあ、あ……、あ、……!」
柔らかな肉を突けばそこが先端に絡みつきながらきゅうきゅうと締め上げてきてたまらない。ゆっくりとした時間の中でお互いの命の声を聞きながら行う静かな愛の行為だと? そんなことなどもう知らん! これまで必死に耐えてきたのだからもう好きにさせてくれ!
「ッあ、ンンっ、……かず、……っァ……あっ、あっ」
バンジークスは今にも引き裂かんばかりにシーツを強く握り締め、上体をたわめる。太い血管と腱の浮き上がる手の甲に手のひらを重ねながら、亜双義は何度も何度も腰を送る。どんなに荒々しい腰遣いで責め立ててもベッドに押し付けられた彼の横顔は喜悦の色を浮かべながら歪むものだから、もう歯止めがきかなくなった。
「ッふ…く…………!」
鍛え上げた亜双義の筋肉は今、バンジークスの深奥を突いて突いて突き上げることだけに使われている。全身の筋肉を使って媚びるように絡みつく肉を振りほどいて腰を引き、またねっとりとまとわりつく粘膜を掻き分けながら腰を送る。そして突き当たりの最奥の肉に欲望の楔を打ちつけると、バンジークスの身体は鞭打たれたようにびく、びく、とうち震えた。
ぴったりと肌と肌とを合わせてこのままひとつに溶けてしまえばいいだなんて馬鹿なことを夢みたこともあったが、そんなこと今ではもう思わない。ひとつになってしまったら彼のことを感じられないではないか。
「あっ……きもち、いっ……ァ、あ、あ────……ッ、……ッ、!」
「ゥ、ぐ……ッ、は、あ……!」
バンジークスは喉を反らしながら一際高く声を跳ね上がらせる。一瞬全身を硬直させたのち、じわ……とシーツに無色の染みが広がった。それが意味することとは一体なんなのか、脳が理解すると同時に、ほとんど悪寒のような昂奮と差し迫った射精感が一気に下腹部を突き上げる。
亜双義は腰骨を鷲掴みにすると半ば強引に引き寄せる。もう足腰が立たぬ様子のバンジークスは内腿をぶるぶると震わせながらべしゃりと頬から崩れ落ちて、尻のみを高くかかげる獣の姿勢になった。
「は、ぁあっ、あっ、ン、んっ……」
ばちゅん! ばちゅん! と打ちつけるたび、生白い尻が艶めかしく波打ち、揺れる男性器から吹きこぼれた淫水が飛び散ってシーツに染みを増やす。ねっとりとした粘膜がぬろぬろとまとわりついてどこまでも深く深く誘ってきて、もうきもちいいきもちいいそれだけしか考えられない。
「あッ、いくっ、……いって、あッ……いく、ぅ、ぁ、あ……!」
いっているのかいきそうなのかもうなにも分かりはしないが、彼が極みに押し上げられたまま長いこと下りてこられていないことだけは確かだった。腰を引けばひくつく粘膜が抜かないでとでもうったえるかのようにせつなげに震えついてきて胸が熱くなる。
「ッく、っう、……ッ!」
入り口の肉の輪の締め付けのキツさに唇を噛み締めながら抽挿を速めていく。脳内に真っ白な官能の靄が広がって、ぐらぐらと煮え立つような液体が狭窄な管を駆け上がる。下半身ごととろけてしまいそうな多幸感に包まれながら亜双義はうねる粘膜に促されるままバンジークスの中へ熱い飛沫を放った。
「……はー……ッ、はぁ、は……」
気が遠くなりそうな陶酔感の中、深く感じるものがあった。
それは昇りつめた瞬間、自我が消滅し肉体も精神も彼とひとつに溶け合っていくような感覚だった。愛慕も尊敬も焦燥も希望も、正も負もすべての感情が互いの間で循環しているような、あたたかな心地。それは絶頂を遥かに超えた、信じがたいような幸福だった。
額から流れ落ちる幾筋もの汗を腕でぐいと拭い、彼のため濡れたシーツの上にバスローブを敷いてやる。バンジークスは素直にその上へと体を横たえた。亜双義も並んで寝転びながら乱れた呼吸を整える。
感情の制御がきかず、欲望のまま無茶をしたという自覚はあった。叱責されても仕方がないと身構えていたのに、彼が望んだのは謝罪の言葉などではなく、甘い口付けだった。
伸ばされた腕を手繰り寄せてたわむれのようなキスを繰り返していると、先ほどまで充分だと感じていたはずなのに、再び飢えたような気持ちがむくむくと膨らんできてしまって参ってしまう。
血の色をのぼらせ薄桃色に染まった首筋を指先で撫で上げながら、もう一度くらいできるだろうかと時計を見ながら頭の中で計算をしていると、彼が「お腹が空いた」などというものだから、愛しいを通り越してもはや腹が立った。
普段の調子が嘘のような旺盛な食欲で、バンジークスはルームサービスをした松花堂弁当をペロリと食べ終えた(「本当にこれでいいのか?」と何度も確認したが「これにする」と頑なだった。アメリカンブレックファーストなども選べたというのに)。そしてさっさと着替えを終えたのち、自分でマシンで淹れたコーヒーを飲みながらのんびりと寛いでいる。
朝の身支度は恐ろしいほどとろくさい癖に、帰り支度はすでに済んでいる彼の様子に亜双義は不機嫌になった。こちとらチェックアウトの時間が近付くにつれ口数も少なくなり、食事も喉を通らぬ有様だというのに。だってこの日が終わってしまえば、自分たちはまた日常に戻り、互いの生活を離れた場所で別々に送る。名残惜しいし、どうしようもなく離れがたい。
恥を忍んで正直に言ってしまえば、寂しい。帰りたくなどない。もっと一緒にいたい、寂しい……それだというのに、なんなのだヤツのあのアッサリとした態度は!
「カズマ、どうかしたのか?」
「別に」
豪奢な弁当箱をいつまでもちまちまとつついている亜双義を不思議に思ったらしいバンジークスが、首を傾げる。けれどもこんな子供じみた本音など、本人に言えるはずがない。照れと恥じらいが先に立って素直になれず、唇を尖らせてそっぽを向いた。
彼はそんなこちらの態度に嫌な顔をするでもなく、ゆっくりとソファから立ち上がると、テーブルへと歩み寄る。そして斜向かいへ腰を下ろすと、亜双義の手の上へそっと自分の手を重ねた。
「また来よう」
こちらの不安のすべてを見透かしたような優しげな声で言ったバンジークスは、頬をやわらかく緩めてつぼみが綻ぶように笑った。
互いがどんなに愛し合っていたとしても、離れて生きてしまえば、たとえ気持ちや想いが変わらなくとも、彼に向き合う時間というのは確実に減っていくだろう。悲しいかな、人間とはそういうものなのだ。そういうものである。けれども……例外もあるはずだと、信じてみてもいいのではないかと思う。なぜならば自分の中で彼はもはや人生の一部であり、生活の根幹なのだ。物理的に離れたとしても、心が深く繋がってさえいれば恐れることなど何もない。成熟した彼のやさしさに包まれて、亜双義はそう強く感じた。
残りの弁当をすべてかき込んで、バンジークスが淹れてくれたコーヒーを飲み干す。
彼が居てくれる。ただそれだけで、亜双義はこの先なんにだってなれるし、どこへだって行けるような気がするのだ。
ホカンスでポリネシアンセックスをする亜双義×バンジークスの話を書きました!
都合により四日間です。
大逆転裁判十周年おめでとうございます!